SSブログ

八幡ほか1971『座談会 現代の考古学』 [全方位書評]

伊藤 信雄・大場 磐雄・鏡山 猛・斎藤 忠・杉原 荘介・八幡 一郎 1971『座談会 現代の考古学』学生社

「この座談会を通じて感じられることは、私を含めて明治大正に生れた考古学者の限界のギリギリの線が出されたという点である。われわれは万能でなく、しかも過去の殻を背負っている。出席者はすべて戦前の考古学の洗礼を受け、破局的な戦時を生抜いて、戦後斯学のために縦横の活躍をし、今日の考古学に一つ一つ礎を据えることに貢献した学者たちである。」(八幡 一郎「はしがき」2.)

今は亡き「学生社」。もはや絶版なのだろうか。
私の本棚にある古本の裏表紙には、「100円」のシールが貼られている。

戦後四半世紀を経た、今から半世紀前の「現代の考古学」が語られている。学史である。
「はしがき」の記載年月は、1971年7月である。
1969年10月25日の平安博物館での出来事以来の闘争を契機に、関東考古学連絡協議会が1971年2月から1972年6月まで『全国通信』を発行していた最中である。

「限界のギリギリの線」が、「破局的な戦時を生抜いて、戦後斯学のために縦横の活躍をし」という自画自賛であったとしたら、問う側と問われる側の対話が成り立つはずもないわけである。
誰も「万能」であるなどとは思っていない。ただ「誠実」であれと思っていたはずである。

例えば、1969年10月25日に配布されたというビラの以下の一文。
「…考古学は戦前のイデオロギー的支柱(皇国史観)とは一切の妥協はない訳だが、自らの社会からの逃避、(いやむしろ大陸侵略に対しては、文化工作の一環として朝鮮・中国においては犯罪的役割を果たした。)とそこにおける体制内的自慰の珍品収集主義的考古学を追求してきた。そして犯罪と同時にすべてが回復すると考古学もまた自らの過去の誤りを自己批判的に総括をなさぬまま、現在同じような道を歩もうとしている。我々はまさにこうした中に考古学のもつ体質、つまり現在社会との関連性を対象化することなく、ナショナリズム、セクショナリズム、トテイ制度支配関係を維持しようとしている。」(立正大学考古学闘争委員会「現代社会と考古学の有効的関連性を追求せよ!」(福田 敏一2007「地人たちの彷徨」『考古学という現代史』151頁より重引)。

主語と述語がうまく繋がらない文章もあるが、言いたいことはよく分かる。
それに対して、以下の文章はどうだろうか。

「前の方で論ぜられた各時代の研究の現状や課題については、人それぞれさまざまな批判を下すだろう。それでよい。ある意味ではそれがねらいである。今更このような問題提起は、出遅れだと観測する向きもあろう。つまりわれわれの限界がここに示されたのであるから、昭和生れの考古学研究者はこの限界を乗り越えるためには、どれだけの用意が必要かを、ジックリと考えて貰うことを示唆しているのである。
私はよくいうのであるが、蝶や蜻蛉をたくさん集めて、これを分類し、その生態を明らかにしただけでは生物学者ではない。もちろん、それは生物学の一基礎である。しかし生物学は遥かに広汎多岐にわたる観察や実験や理論の集積であり、体系である。考古学が一つの学問であるためにはさまざまな基本条件を充していかなければならないと。われわれが充足し得なかったもの、それを今後の研究者に期待するものは甚だ多い。この座談会はある意味からいって、そうしたわれわれの反省であり、次のジェネレーションに向って注文をつけてもいるのである。」(八幡 同:2-3.)

繰り返されるのは「限界」であり、その果ては「反省」と「注文」である。
一般に「これが私の限界です」といったセリフは、自らの非力ゆえに皆さんの期待に応えることができずに申し訳ないといったニュアンスを帯びるものだが、ここではそうした気配は一向に感じられない。
むしろ逆の「それで何が悪いのか」という開き直りの気配が濃厚である。
何をどのように「反省」しているのかさっぱり分からないし、「注文」をつけられてもどのような注文をつけられているのか、これまたさっぱり分からないという意味不明で内容がない、まるで官僚が作成して政治家が棒読みしているような文章である。
「考古学が一つの学問であるため」の「さまざまな基本条件」って、いったい何なのですか?

「新しい日本文化の建設とは、天皇制には全く触れない考古学の市民的地位の向上と侵略略奪発掘の賛美、正当化のことであった」とする「全国考古学闘争委員会連合」側の認識と「日本考古学の現状と問題点をさぐる!」という大上段に構えた内実が、「下部旧石器時代は日本に存在したか、先土器から縄文へ はたして連絡するか、稲作の起源はいつか、縄文弥生人骨の相違、埴輪の起源など」という陳腐な内容の羅列であり、あるいは「考古学の将来」と題する最終章でのテーマが「学生数はどれくらいが妥当か」とか「考古学と語学力」といったどーでもいい話しに終始している側との落差である。
年月を経るごとにスカスカに軽くなっていく語りと、年月を経てもあるいは経るごとに重みを増していく問題提起。

半世紀前に交わされたアレコレについて考える。
提出された様々な問いについても考える。
「この座談会の話題とはならなかったが、日本の考古学が抱えている大きな命題がある。先土器時代、縄文時代など先史時代の考古学と、弥生時代、古墳時代など原史時代の考古学と、奈良時代以後の歴史時代の考古学が、果たして同一の方法論によって進めることができるかという疑問である。」(八幡 同:3.)

なぜこのような重要な論題が議論されなかったのか。現在に至るまで議論されていないのか。

一つは、近現代考古学であり、<遺跡>問題である。
ここから目を逸らしている限り、停滞は不可避であろう。
今一つは、戦争責任問題であり、収奪文化財返還である。

半世紀前の問いを抱きながら、果たしてどのような道筋が描けるのか、暗中模索の最中である。
50年後の人は、どのような思いで、今の『現代の考古学』(日々積み上げられる屍)を振り返るのだろうか。



タグ:考闘委 学史
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。