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考古学者・八幡 一郎 (前) [学史]

「山内清男、甲野勇、八幡一郎(1902-1987)という、いずれも東京帝大人類学教室(選科)を出た三人の研究者は、しばしば「編年学派」と呼ばれるが、ここで甲野を取り上げるのは、彼が戦時中、厚生省(民族:引用者挿入)研究所人口民族部に勤務し、戦争遂行と関わる研究を行った人物でもあるからである。」(坂野2013「考古学者・甲野勇の太平洋戦争」:142.)

山内、甲野と来れば、次は八幡である(山内については、かつて[論文時評]山内1936「日本考古学の秩序」【2007-05-17】で触れた)。

はたして「考古学者・八幡一郎の太平洋戦争」は、どうだろうか?

 

「日本の考古学者が大陸の研究に専心するを見て、坊間、或いは学問の侵略主義なりと謗り、時にはファッショの手先なりと叱呼する者がある。さうした言葉の裏に種々なる僻みや嫉視が含まれてゐることは否むことが出来ない。大陸に於ける研究上の様々なる苦心は到底内地のそれの比ではなく、扁々たる名誉欲だけで能くし得るものではないのである。しかも其研究者は単なる闇黒地探求の好奇心に止まり得ず、絶えず極東の闡明、日本の闡明を志してゐる。謂はれなく大陸研究者を謗る諸君よ、諸君は他日其土産の意外にも豊富なるに驚くであらう。否他日を俟たずとも、今次の両君の著作の内から発見し得るものが如何に多いかを知るに違ひない。」(八幡一郎1935「内蒙古・長城地帯」『考古学』第6巻 第6号:277-8.)

 

「坊間(ぼうかん)」とは殆ど死語であるが、「世間」ぐらいの意味である。
1935年という時に、大陸で調査・研究している日本の考古学者に対して、「学問の侵略主義なり」あるいは「ファッショの手先なり」と指摘した人が居たという。全ての人が侵略考古学を黙認していた訳ではなかったという事実を今に伝えるという意味で、この文章は重要であり、また勇気づけられる。
近藤義郎氏は、当時の研究者の多くは「侵略に反対する良心」の代わりに「学問に対する良心」に従っていたと述べたが(近藤1964「戦後日本考古学の反省と課題」)、僅かであっても「侵略に反対する良心」を保ち、間接的あるいは直接的に当事者に述べ伝える人が居たのだ!
ところが、そうした指摘に対する当事者の対応は、どうであろう。自らに対する批判に対して正面から応答することなく(「謂はれ」は有るにも関わらず)、批判者に対して「僻み」(ひがみ:ひねくれた考えや気持ち)や「嫉視」(しっし:ねたむ気持ちで見る事)という心理的な側面に問題を矮小化して相手を貶めることで、自己を正当化するものであった

更に重要なのは、こうした姿勢は1945年で断絶している訳ではなく、以後も継続しているという点である。
本文章を含む全文は1980年に刊行された『八幡一郎著作集 第6巻 方法論序説・日録』(雄山閣)に収録されているが、その「編集にあたって」と題する解説文の当該箇所は以下の通りである。
「・・・友人の功を称えた「内蒙古・長城地帯」では中国考古学研究者の侵略性、売名性といった一部世上の譏りに対して弁護の筆をのばすといったように自己の信ずるところを表明して憚るところがない。」(藤江 稔)

正に「憚るところがない」。
それでは、以下の文章についてはどうであろうか。

「日本は現在軍事一切を担当している。しかしながら長期戦ともなれば、諸民族にもその一部を担当せしめねばならぬかもしれぬ。彼等の裡には膂力優れ、耐久力あり、視覚敏く、聴覚鋭く、山岳に敏捷、海洋に馴れるなど、幾多の有能なる力量をもてるものがある。兵站に、哨戒に、奇襲に、彼等を訓育し散開せしめることは、彼等にまた東亜建設の一捨石たることの矜持を抱かしむると共に、わが防備攻撃の布陣をしていよいよ鉄壁たらしめ得るであろう。この場合には各民族の体質、性向、能力等に関する充分なる学術的調査の結果を得ておもむろに実施すべきである。土民軍、民族軍の編成は、自警団の組織、補助警官の養成など内治的施策を基礎とするもよく、その性能に応じて特科隊に配置するもよかろう。
東亜文化の確立は日本の手によって初めて可能である。各民族は各々固有独自の伝統的なる技術と芸術とをもっておる。それは欧米の限界外のものであり、また範疇を異にする。これらの長を採り、短を捨て、伸長せしめ、保育しつつ連結するならば、欧米文明の上に否定に、東亜の新しく、また本然の文明が輝かしく華開くであろう。われわれはただちに各民族の固有の文化をしらねばならぬ、探求せねばならぬ、比較せねばならぬ。」(八幡 一郎1942「民族対策小論」『新知識』第15巻 第12号)

これまた書き写していて、気恥ずかしくかつウンザリしてくる文章である。ここまであからさまに民族調査の目的を記した文章も珍しい。こうした提言が、「高砂義勇隊」などの編成に繋がったのであろう。

戦後35年を経た、その評価。
「「民族対策小論」は民族学に基礎を置いた発言であって、南方アジア諸民族の文化伝統を尊重する立場から時節柄最小限の表現をもって筆された所懐である。この文章から植民地主義者との誤解をなす人があるかも知れぬが、先生は民族の実情を学問的に知悉して政策をも民生本位に遂ぐべきだとした一貫して変ることのない立場を堅持し、時勢に応じて豹変するような器用なことはできない。東大時代に皇国党総裁というニックネームをたてまつられたことがあるが、日本文化の本質にかかわることに暴言を吐くと強い語調でいましめられた。これは他民族の文化についても同様で、特に文明度の低い民族に対しては深い愛情すら感ぜられる程に、個々の文化伝統を重んじられる。そこを読みとらないと誤解を招くであろう。」(藤江 稔)

「文化伝統を尊重」された方こそ、たまったものではない。
あの文章から植民地主義者と読み取ることが誤解であるとの理解こそが誤解であろう。「土民軍、民族軍の編成」をもって侵略戦争に動員することが、「深い愛情」による「民生本位」であるというのは、言葉の拡大解釈の限度を超えていると言わざるを得ない。「皇国党総裁」という立場が「一貫して変ることのない」のであれば、70年前後の混乱もまた必然である。

「日本考古学的言説空間の構造とその再生産のメカニズム」が、如実に表出している一断面である。


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