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坂野2013「考古学者・甲野勇の太平洋戦争」 [論文時評]

坂野 徹 2013 「考古学者・甲野勇の太平洋戦争 -「編年学派」と日本人種論-」『国際常民文化研究叢書』4:141-154.

「(前略)従来の考古学の学説史においては、太平洋戦争期、考古学のような学問は全体として敬遠され、「足踏み状態」に置かれたが、皇国史観による抑圧から解放された1945(昭和20)年以降、古代の真の姿を明らかにする学問として、社会からの期待に応えようとしたという物語が語られてきた(3)。こうした考古学の自己認識は、たとえ少数の「文化戦犯」がいたとしても、大部分の研究者は免罪されるという意味で、戦後の日本考古学にとって都合のよいものであったことも確かである。(中略)
なかでも興味深いのは、日本考古学の中でも、研究領域によって皇国史観との関わりには違いがあったという溝口孝司による指摘である。現時点における縄文研究の到達点を示す講座(『縄文時代の考古学』2010年)に収められた論考で、溝口は、戦時中(戦前)、弥生時代以降を対象とする研究は天皇制(「国体」「皇統」)の問題と抵触する可能性をもつがゆえに「危険な研究領域」であったのに対し、石器時代(縄文)研究は「比較的安全な研究領域」であったと述べている(5)。」(142.)

人類学、民族学、民俗学といった周辺領域から、徐々に接近されつつあるという感が。
嬉しい限りである。 

溝口2010「『縄文時代』の位置化」(ママ、「価」の誤植)を評価している本論の導入部分であるが、私の見るところ、「研究領域によって皇国史観との関わりには違いがあった」のは、石器時代(縄文)=「比較的安全」:弥生時代以降=「危険」という筆者が依拠する溝口2010が提示する図式は(部分的にはそうだとしても)、肝心なポイントを外しているように思われる。
それは何よりも、朝鮮半島における日本人による考古学調査が、当初は朝鮮総督府による全面的な支援によって、後には岩崎・細川ら華族からの寄付金や学振からの助成金、宮内省からの下賜金などによって財政的な基盤が形成されていたということ、言い換えれば戦時期の半島および大陸の考古学的な活動は国家意思によって全面的に支持されていたことである。これは、「比較的安全」などといったレベルの問題ではなかったのである。
所謂「内地」における時代的格差以上に、「内地」と「外地」の間の格差こそが問われるべきであり、こうした視覚の欠落もまた問われるべきであろう。

もちろん筆者もそのことは、良くご存じのことであろう。
「(前略)研究者に求められるのは、自らの知的営みがいかなる状況のなかで行なわれているかに、常に自覚的であり続ける姿勢だろう。だが、実際には、自分の研究を支える場の政治に対して意識的であること、これは口でいうほどたやすいことではない。本書のような学問(科学)の自己反省に関わる試みも含めて、学問という営みを可能にする条件についての思索をやめぬことの大切さ、それこそが本書のささやかな結論にほかならない。」(坂野 徹2005『帝国日本と人類学者』:505.)

「ただし、ここで注目したいのは、敗戦後も甲野勇は後藤守一と活動を共にする機会が多かったという事実である。敗戦間もない1946(昭和21)年7月に、甲野は、三浦半島初声村(現・三浦市)で後藤、オランダ人神父のジェラード・グロート(1905-1970)42)らとともに発掘調査を行い(中略)、さらに朝日新聞の後援を得て、日本古代文化学会の主催(責任者・後藤守一)で秋田県の大湯環状組(ママ)遺跡の調査(同10月)も行っている43)。」(150.)
「43) 江坂輝弥「大湯環状組(ママ:組石の誤り)遺跡調査の頃」前掲『甲野勇先生の歩み』75-79頁。さらに、甲野は後藤守一と共編で『新制教育教授資料考古掛図』という書物も編んでいる。また、この時点ではまだ古代文化学会が存続していたことの意味を見逃すべきではないだろう。こうした混沌とした状況の中から、登呂遺跡発掘を契機に、日本考古学協会が誕生するが、その経緯についてはまだ多角的な検討が必要だと思われる。」(153.)

戦後における古代文化学会の存在は、まさに「見逃すべきではないだろう」。
本ブログ(「日本古代文化学会と日本考古学協会」、「大湯環状列石」)でも少し述べた。
日本考古学協会誕生の経緯についても、「多角的な検討が必要」である。


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溝口孝司

貴重なご指摘ありがとうございます。Mizoguchi 2002, 2006, 2013などでも触れてきました<<日本>考古学>的言説空間の構造とその再生産のメカニズムにつき、ご指摘の視点をいれて再検討しようと思います。
by 溝口孝司 (2013-12-05 22:56) 

溝口孝司

これを機会に広くご検討いただきたく思い、以下に上記に関する書誌情報を記載させていただきます。(五十嵐さん、このようなきっかけを与えていただき、ありがとうございます!)

1) Mizoguchi, K. 2002. An Archaeological History of Japan: 30,000 B.C. to A.D. 700. Philadelphia: University of Pennsylvania Press. (主要関連箇所:Chapter 2)

2) Mizoguchi, K. 2006. Archaeology, Society and Identity in Modern Japan. Cambridge: Cambridge University Press. (書物自体がすべて関連事項に関する検討ですが、私の関連言説にかんする理論的枠組みの開示をChapters 2 and 3で体系的におこなっております)

3) Mizoguchi, K. 2013. The Archaeology of Japan: from the Earliest Rice Farming Villages to the Rise of the State. Cambridge: Cambridge University Press. (主要関連箇所:Chapters 1 and 2)

溝口孝司. 2010. 「縄文時代」の位置価. 縄文時代の考古学12: 研究の行方(小杉康ら編), pp. 97-111. 東京:同成社
(上記文献に展開した理論的枠組みのまとめ(1~4節)に基づき、<縄文時代>という言説空間の振る舞いが、<考古学的言説空間>を構成する他の言説空間との差異の表示・再生産を通じてどのように規定されてきたのかを観察したものです。まず、五十嵐さんのご批判とは分離した形で、その(私の立場からの)観察結果についてご検討いただければ幸いです)

by 溝口孝司 (2013-12-06 11:05) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

間接的な言及にも関わらず、コメントそして書誌情報をお寄せ下さりありがとうございます。
私も日本における文化財返還問題に関わりながら、溝口さんの言われる「日本考古学的言説空間の構造とその再生産のメカニズム」を少しでも明らかにしていくことが、今最も求められていることであると痛感しています。
なぜこうした言説空間が生みだされ、そしてどのような必要性から維持されようとしているのでしょうか? このポスト・コロニアルな時代に!
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2013-12-06 20:48) 

溝口孝司

五十嵐さん、応答どうもありがとうございます。何かを見るために何かを見えなくせざるを得ないのが人間だと思います。自分に何が見えていないかを自分で見ることはできません。その見えない/見ることができない/見ないようにしている(けれどもそのことに気づいていない)ものを、コミュニケーションを通じてどういうふうに見えるようにしてゆけばよいのか?この問いに容易な解答がないのは、コミュニケーションとしての相互批判そのものが、それ自体、お互いに「何かを見ない」ことを前提にしているからです。そのことを容認しながら、お互いにお互いが「見ていない」ものを見えるようにしてゆくにはどうしたらよいか。僕なりに考えてゆこうとしており、上にあげさせていただいた仕事は、それぞれにそのような思考の結果です。それぞれに考え、行為してゆくしかないですね。今後ともどうぞよろしくお願いします!
by 溝口孝司 (2013-12-06 22:51) 

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