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2021『八王子市 No.987遺跡』 [考古誌批評]

五十嵐 編 2021e 『八王子市 No.987遺跡 一般国道20号(八王子南バイパス)建設事業に伴う埋蔵文化財調査』東京都埋蔵文化財センター調査報告 第365集、2021年10月29日発行

定年イヤーに何のめぐり合わせか近現代主体、そして念願のフルカラーである。
近現代に出会ったのは、今から35年前の院生時代に参加した『郵政省飯倉分館構内遺跡』(1984年調査・86年報告)だった。出土万年筆を調べにデートを兼ねて平塚のパイロット万年筆資料館に行ったり、今となっては懐かしい思い出である。

No.987の考古誌も、様々な偶然が重なって出来た産物である。
着手が2ヵ月近く遅れて、4ヵ月調査・4ヵ月整理の短期現場であった。
100頁の予算で結果的に87頁となり、三桁数字の<遺跡>名称をどのように背表紙に入れるか、洋数字の縦書き表記は受容できないので、斜めに入れるか漢数字に置き換えるか思い悩んでいたが、結果的に横書き表記で何とか収まって安堵した。

以下、備忘録代わりに幾つかの事柄を、思いつくままに書き記しておこう。

1.<遺跡>問題
まずは埋文行政の基盤となっている「包蔵地」と<遺跡>の相互関係について。
一般的には開発行為に先立って調査がなされる「周知の埋蔵文化財包蔵地」略して「包蔵地」は、考古学的な<遺跡>と一体視されているが、決してそんなことはない。
多くは、包蔵地範囲の中の開発予定地が調査対象となり、包蔵地範囲外は調査の対象外となる。

しかし包蔵地範囲外の開発予定地から重要な遺構が検出されて、包蔵地範囲が拡張されたといった事例も多い(例えば「緑川東遺跡」など)。
あるいは包蔵地内の開発予定地全てが自動的に本調査の対象となるのではなく、開発予定地での試掘調査の結果によって本調査範囲を絞り込むといった場合もある。今回のNo.987がそうであり、東西600m・南北300mの包蔵地範囲に幅員30mの国道構築が計画されて、2m四方の試掘グリッドが88ヵ所設定されたが、その多くで遺構・遺物は確認されず、現国道との接続部分のみが本調査相当とされた。

<遺跡>範囲が包蔵地範囲を超え出ている場合は、包蔵地範囲が拡大する。
しかし包蔵地範囲内で試掘調査を行なって本調査範囲を絞り込んでも、包蔵地範囲が変更されて縮小されたといった事は余り聞かない。
なぜだろう?
少なくとも「包蔵地」と<遺跡>そして「調査区」といった異なる性格の3つの概念と用語を使い分けることが必要である。

2.文化財認定
2,590㎡の調査区を調査して出土したのは、ローム層出土の礫片2点と縄紋土器片4点、そして大量の近現代資料であった。しかし文化財として認定されたのは前者のみで、後者の近現代資料は文化財としては認定されなかった。
言わば本体は前者であり、後者はおまけみたいなものである。

その「おまけ」がこのようにして何とか報告できたのも、「地域において特に重要なもの」であるという地元教育委員会の強力な後押しがあったからである。
「地域において特に重要なもの」が文化財として認定されないという辺りが解せないが、これが現在の「日本考古学」の現実である。
おまけがおまけでなくなる、産業廃棄物として打ち捨てられてしまうようなことがない、少なくとも調査時点では他の先史遺物と同じような扱いがなされて、文献資料などの検討の後にしかるべき選択がなされるべきであろう。
そもそも近現代資料が調査範囲に存在したのか、それともしていなかったのかということすら記載されていないのでは(例えば『三田二丁目町屋跡』など)、読者は「取り付く島もない」。

3.近現代
No.987における近現代のそもそもの端緒は調査を着手するにあたって、その事前準備として該当地の1944年の地図(第2図-2)を閲覧した時である。調査区の中央部分に当時の当地としては不自然な長大な建物が描かれている。何かの工場でもあったのだろうかと訝しく思っていた。
引き続き近くの法務局に赴き、所蔵されている旧土地台帳を閲覧した。何と、調査区に該当する地番の地目欄には「由井村隔離病舎」の文字が。
現地からは、不自然に立派なレンガ積みの井戸、そして2基の廃棄土坑からは19世紀末から20世紀初頭と思われる生活雑器、個人医院の名称が浮き彫りに記された各種薬瓶、吸い飲み器や尿瓶、試験管や注射器のようなもの、アンプル・体温計など各種医療器具が次々に掘り出されていた。

休みの日に地元の郷土資料館で市内の隔離病舎について尋ねたところ、『市史』に市内の隔離病舎の一覧表が掲載されていることを教えて頂いた。そこには由井村をはじめ市内11箇所の隔離病舎の所在地・落成年月・建設費が記されていた(八王子市市史編集委員会編2016:349.)。これは大きな一歩であった。
19世紀末には、日本各地で赤痢が大流行し、由井村では「野には耕夫なし」という状態であった。まさにパンデミックである。1897年に伝染病予防法が公布されて、翌年から全国各地に隔離病舎の設置が義務付けられたのであった。

側面に計量目盛が刻まれた薬瓶に記された個人医院について地元の医師会に問い合わせたところ、現存しない個人医院は医師会としても把握していないとコロナ対応でそれどころではないという雰囲気を濃厚に漂わせながら、「けんもほろろ」状態であった。こちらについては、その一部について地元の郷土資料館の方のご教示によって1927年および1931年発行の八王子市街を描いた「職業別明細図」で確認することができた(第52図 出土薬瓶記載医院所在地)。このことが機縁となって、当時問題となっていた医療報酬額を巡る騒動「八王子事件」にまで辿り着くことができた。

ガラス瓶に陽刻された文字から確認できた現存会社組織には、ネット上の問い合わせフォームからお客様相談室に「発掘調査でこんなものが出てきたのですが、製造年代とか分かりますか」と問い合わせていった。懇切丁寧に応対してくれる会社もあれば、それこそ「そんなことは分かりません」と素っ気ない会社もあり、こうした対応一つにその組織の自らの歴史に対する思い入れと消費者対応の深浅が如実に表れることを実感した。

近現代は僅か100年ほど前のことなのに、知らないことがいかに多いかを知らされた。知らないことを知る、毎日が刺激的な日々であった。
近現代資料に詳しい同僚はもとより多くの協力者に助けられた。

直径が30cm以上もある円環状の大形瓦製品(第31図35-37)は、「シキワ」と呼ばれる厨房器具であることを教わった(小川1995)。
たわしのような形状の表裏両面に穴が多数ある鉄製品(第26図-12)は、温石と白金触媒式カイロを繋ぐ「灰式カイロ」であることを教わった(太田区立郷土博2011)。
「いろはミルクプラント」「八王子ミルクプラント」と陽刻された牛乳瓶(第23図・第38図・第39図)については、近隣の牧場を訪ねて牧場主のご母堂から戦時期の牧場および乳製品加工業の様子について伺うことができた。
白泥で文字が記された急須(第46図-25)については、醤油店の販売促進品であることが判明して、現在はネット事業を展開されている後継の社長さんが現場まで見に来られた。
急須(第45図-15)の体部に小舟に乗る人物と共に記された訳が分からない漢文については、現場の作業員の習字の先生に中国・蘇軾の「赤壁賦」の一節であることをご教示いただいた。
「海軍満期記念」と記された小杯(第20図-19)については、大阪方面で緻密な考察が積み上げられていることを知った(西川2007・08・09)。
29点と最多の薬瓶(第22図・第33図・第34図・第47図)が出土した個人医院については、調査区に隣接する住人から近くに同じ名前の方が住んでいると教えて頂き、早速訪ねたところ今は遺品など当時のものは殆ど残されていないが医師として活躍されていた御祖父様の逸話など興味深いお話しを伺うことができた。
注射器のような形状をしているにも関わらず先端部にどうやって針を装着するのかまるで見当が付かなかったガラス製品(第37図-136-138)は、実は注射器ではなく肛門から下剤を注入する「注入器」であることを教えて頂き、関係者一同、目から鱗であった。
華麗な模様が浮き彫りになったガラス容器(第24図-54・第42図-200など)は、「缶詰代用ネジ瓶」と称するもので、底面の陽刻数字は型枠番号であることを知った(棚橋2003)。
体温計(第37図-140など)に陰刻されている図案化された文字についてはどうしても判読できなかったのだが、「FAVOUR」というかつては一世を風靡した商品名(現在は非接触型に押されて生産中止)であることが判明した。
親指の爪ほどの分銅形のザラザラしたもの(第44図-14・15)は、アンプルの首に傷を付けて折り取る「アンプル・カッター」であった。
緑色で厚手のガラス容器に「磯じまん」と陽刻文字が記されていた(第41図-185)。東京生まれの私にはチンプンカンプンだったが、関西出身の作業員は即座に海苔の佃煮容器であると断言して、コマーシャル・ソングまで歌ってくれた。

由井村隔離病舎関連資料については、まだまだ語り尽くせない豊饒な物語りがあるのだが、斯様に近現代考古学なるものは探れば探るほど奥が深い領域であることを痛感した。それでも用途や名称が分からない<もの>たちがまだ多々ある。
考古学という学問が探求すべき物質資料は、時代が新しくなればなるほど文献資料も増大することによって歴史資料としての果たすべき役割も漸次低下するという「エントロピックな語り」は、多くの個別事例については全く当てはまらない。
コロナ禍での調査・報告であった。将来「感染症と考古学」という研究集会が開催されるならば、人々の目からも意識からも隔離されていた由井村隔離病舎跡地は欠かせない資料となろう。

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