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松島2018『琉球 奪われた骨』 [全方位書評]

松島 泰勝 2018 『琉球 奪われた骨 -遺骨に刻まれた植民地主義-』岩波書店

「本書の目的は次の通りである。
(1) 日本の琉球への植民地主義の歴史や日本の帝国主義について、琉球人遺骨を通じて論じる。
(2) 琉球人遺骨問題は、世界の先住民族が直面し、解決してきた世界的な問題であることを明らかにする。本書では、遺骨返還運動を先住民族による自己決定権行使運動として位置付ける。
(3) 京大は現在にいたるまで、私や新聞各社からの本件に関する問い合せを一切拒否している。つまり私を、対話可能な同じ人間として見なしていないのである。本書によって先住民族の遺骨問題に対する関心を高め、私が批判した研究者、大学、博物館等からの反論や応答を期待したい。学問や研究は、議論を通じて深めることができる。対等な人間としての関係性を、本書によって築きたい。」(vi-vii.)

2020年2月27日には、「琉球遺骨返還請求訴訟」において、「学知の植民主義」と題して著者による意見陳述がなされたようである。残念ながら、京都大学はいまだに著者を「対話可能な同じ人間として見なしていない」ようである。

(4) 遺骨(港川人1、2号)は東京大学総合研究博物館に所蔵され、国立科学博物館において日本人の祖先として港川人の復元された人形が展示されている。港川人以外の琉球で発見された旧石器時代の人骨も、日本人の祖先として位置づけられている。学知によって日琉同祖論が、大学や博物館で再生産されているという問題について考察する。
(5) 琉球人遺骨を実際に琉球の地に返還し、再風葬を実施するための歴史的考察、論拠、実践のための手引等の書とする。琉球人遺骨と日本の植民地主義や帝国主義との関係について考察した書籍は、本書が初めてとなる。私は百按司墓琉球人遺骨に関する訴訟を準備しているが、本書が裁判の過程において参照されることを希望したい。」(vii)

港川人はもとよりサキタリ洞も白保竿根田原洞穴も、そして「3万年前の航海」についても、「日本人の起源」といった観点からしか捉えていなかった。石垣島生まれの著者は、そうではないという。「琉球人の起源」なのだ、と。


「琉球人は、独自の歴史や文化を持ち、日米の植民地支配を受けてきたネーション(民族)である。本書では民族としての琉球人を明示するためにも、「琉球」の呼称を使いたい。「琉球」または「琉球人」を主語として琉球の歴史を論じることで、長期の視点から琉球の過去や現在を考え、未来を展望することが可能になる。「琉球」という言葉は、かつて国として独立し、現在は日本の植民地支配下におかれ、将来、自己決定権によって独立(琉球国への復帰)する可能性があることを想起させる。将来、琉球が独立した時の国名は、「沖縄国」ではなく、「琉球国」が使われるだろう。」(ix)

そして京都大学との交渉の次第が語られる。京都大学の責任者は、当該問題について研究倫理よりも「研究者のネットワークを重視する」と述べていた。

「2017年8月、私は琉球民族遺骨返還研究会代表として、京大総長の山極壽一に対して琉球人遺骨返還に関する要望・質問書を提出するとともに、遺骨関連の情報開示請求を行った。京大は琉球民族遺骨返還研究会の要望・質問書に対して次のように回答した。「本件について個別の問合せ・要望には応じかねます。つきましては、本件で本学を来訪することはご遠慮いただきたく存じます。なお、今後、何らかの形で新たな問合せ・要望をいただいたとしても、応じかねますので、ご了承ください」。(94.)

「2017年12月、私は京都大学大学院理学研究科自然人類学研究室に対して、骨格閲覧を申請した。同研究室の事務所は、「申請書を受け取りましたが、閲覧ご希望の標本は当研究室の管理資料に存在しません」と回答した。なぜ存在しないのか、いつどこに移動させたのかという質問をしたが、未だに回答がない。同研究室のホームページには次のような記載があった。「自然人類学研究室は「清野コレクション」と呼ばれる日本屈指の発掘人骨資料を所蔵しています。この資料は日本列島におけるヒト集団の変遷とその生活様式の研究に大きな役割を果たし、多くの研究者が利用に訪れています」。京大は「清野コレクション」を個人のものだとしながら、これを「日本屈指の発掘人骨資料」として大学法人の所蔵品とする欺瞞性、当事者の人権に配慮しない学知の傲慢性が、右の記述から明らかである。」(92-93.)

本件を巡る京都大学の姿勢について、冨山一郎氏は「自らの研究行為の歴史的な前提を問うことのないおぞましい姿」とまで評した。

「アメリカの先住民族が遺骨や副葬品の返還を求める場合、その「所有物」の返却を主張しているのではなく、多くの場合において、もし返還が実現しないと全ての人にとって世界が「正常、健康、美、生長、正しさ」を実現できなくなるという、認識が共有されている。つまり、遺骨返還によって世界の秩序が回復されるというコスモロジーが、先住民族の遺骨返還運動の信仰的、思想的支柱になっていると理解することができる。
また先住民族は、人体やその一部、文化遺産、埋葬された供物、遺体から剥ぎ取られた衣類を、ジェノサイド、民族殲滅、文化的破壊、領土の侵略等の植民地主義の被害を受け続けている人々に返還されるべきであると認識している。植民地支配の被害者として、先住民族は遺骨返還を訴えている。その変換が、植民地支配の反省と償いの第一歩となるのである。他方、京都大学のように外部からの遺骨に関する問い合わせに答えず、遺骨を返還しないことは、現在における自らの植民地主義を自覚せず、それを今後も続けていくという意思の表明であると理解することができる。」(141-142.)

著者は、経済学部国際経済学科に所属し、専門は「地域経済論、経済史、経済政策」である。なぜ人類学を専門とする研究者からこうした問題提起がなされないのか? 自らの学の根幹に関わる問題ではないか!
しかし、こちらの考古学の状況も「似たり寄ったり」といったところである。
せめて同じ「人類学」という名称を用いているのだから、「理系-文系」などと言っていないで、もっと形質人類学と文化人類学との間で対話や交流がなされるべきではないだろうか。

「京大による植民地主義の問題性は、次のように整理することができる。
(1) 京大は「熟達度」「研究実績」などの「専門性」を、遺骨「実見」の条件とした。しかしその場合の「専門性」は恣意的な決定が可能であり、「専門的な知識や能力」に関する明確な規定や定義は明確でなく、京大が遺骨「実見」を拒否する「言い訳」となっている。また、なぜ専門家でないと「実見」が許されないのか、という問題もある。
(2) 遺骨返還請求に関する京大の姿勢から、琉球人遺骨に対する「絶対的な所有意識」が明らかである。しかし本来、当該遺骨は京大の所有物ではなく、琉球人のものである。真理を究明して、これを社会に還元するのが大学の責務である。遺骨の盗骨は犯罪であるが、その事実に向き合わず、窃盗物を隠匿し続けることは共犯になる。
(3) 研究対象や自らの研究成果に対する欲望、指導教授への忠誠心が、大学による遺骨保管の動機として指摘しうる。このような研究者側の姿勢は、遺骨、琉球人の信仰や慣習等に対する敬意の欠如を示すものであり、琉球人の自尊心への攻撃ともなっている。
(4) 京大は遺骨に関する「問い合せ」への回答を拒否してきた。それは琉球人を、対話可能な対等な人間として扱わないことを意味しており、琉球人差別であると言える。多くの琉球人が辺野古や高江の新米軍基地建設に反対する民意を何度も日本政府に伝えたが、それを無視し、基地建設を強行してきた。このような、琉球の基地問題と共通する、琉球人に対する差別である。」(250-251.)

自らの来歴・本性を明らかにすることを名目に、自らとは異なる他民族に対する差別的な(決して自らの民族にはしないような)調査・研究がなされる。これが「オリエンタリズム」と名付けられた植民地主義である。

「私は、学知の帝国主義や植民地主義の歴史や実態を明らかにし、琉球人の尊厳や権利を回復したいとの思いを胸に本書を執筆してきた。「学問の暴力」に「抵抗の学問」を対峙させることで、琉球の脱植民地化を進めたいと考えた。「抵抗の学問」の内実は、「研究のための研究」に終始するのではなく、例えば、大学との交渉や提訴等、社会的な実践を通じて深めることができる。研究は実践と手を携えながら進めることで、社会変革のツールになり、被植民者の期待にも応え、「抵抗の学問」として支持されるだろう。実践における試行錯誤の過程をも研究の対象にして、実践と研究が相互に往復運動を繰り返すことで「抵抗の学問」が形成される。
京都大学が「日本政府の統治代行機関」ではなく、「学問の府」であるなら、私の批判や遺骨返還要求を無視し、逃避するのではなく、真摯に応えることを期待したい。また本書で実名を挙げて批判した、他の研究機関の研究者、形質人類学者らからの意見や反論も待ちたい。本書を通じて対話が始まるのか、また植民者との深い断絶がさらに深まるのかを見極めたい。現在、閉ざされた扉を開ける鍵としての役割を、本書が担ってくれることを希望する。」(260.)

学問に関わる人たちは、自らの立ち位置について「暴力の学問」なのか、それとも「抵抗の学問」なのかについて、鋭く問われている。政治的でない学問など有り得ないのだから、政治的な事柄には関わらないという姿勢自体がすでに「隠然たる暴力の行使」である。


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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

ご先祖様のお骨を返してほしいという地元の人たちの求めに応じようとせず、研究者のネットワークを重視するとうそぶく人たちを「首狩り族」と呼びたいと思う。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2020-04-25 04:14) 

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