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宮本2017「日本人研究者による遼東半島先史調査と現在」 [論文時評]

宮本 一夫 2017「日本人研究者による遼東半島先史調査と現在 -東亜考古学会調査と日本学術振興会調査-」『中国考古学』第17号:7-19.

「日本の各大学や博物館などにおいて依然として収蔵されている植民地考古学の一次資料は、日本の大陸侵略による負の遺産ということができるが、一方でこうした一次資料を今日的な学問水準から再調査や再分析する価値は十分に存在している。日中の考古学的交流が活発化している中、こうした資料から新たな学問的な成果を出すことが中国考古学への貢献をなすことに繋がるであろう。さらに、複雑な国際状況の中で東北アジアの歴史復元における科学的な資料を提供するものであり、こうした一次資料を基にした再調査や再研究は日本人研究者の責務の一つと考えられる。」(16.)

東亜考古学会あるいは日本学術振興会などによる日本人研究者による遼東半島の調査について、「植民地的考古学」「日本人の大陸侵略による植民地考古学資料」「日本の大陸侵略による負の遺産」と位置付けられている。
その通りとしか言いようがない。
問題は、その後の展開である。

「日本の大陸侵略による負の遺産」であるから、「負の遺産」を清算するためにも、本来あるべき<場>へ返すのが「日本人研究者の責務の一つ」とはならない。
「日本の大陸侵略による負の遺産」であるが、今日的な学問水準による再調査、すなわち東北アジアの先史時代土器編年の構築や土器胎土内のプラント・オパール分析をすることが「日本人研究者の責務の一つ」であるとする。
私も「こうした一次資料を今日的な学問水準から再調査や再分析する価値は十分に存在している」と思う。しかしそのためには、なすべき前提的な作業があるのではないか。

共通の前提から導かれる順接と逆接の隔たり。
返すべき資料を返してなおかつ残った資料で研究するというのではなく、あるいは返した資料について返した相手と共同で研究を行おうというのでもなく。
なぜ、こうしたことになってしまうのだろうか?
それは、前提的な「負の遺産」という「道義的評価」はあくまでも建前で、本音は自らの研究推進が根底にあるからではないだろうか。
どこかで見た風景である。
そう、アイヌ遺骨の返還にあくまでも抵抗し、DNA採取による道筋を少しでも確保しようとする人類学者の姿勢と同じではないだろうか。

以下は、本ブログでもすでに紹介した「アイヌ人骨・副葬品に係るラウンド・テーブル報告書」の一文である。
「とりわけ深刻な問題は、過去の研究目的の遺骨と副葬品の収集である。遺骨と副葬品の収集に際して、経緯について不明確なものや、アイヌへの趣旨の十分な事前説明と発掘行為への同意取得がなされず、今日の研究倫理の観点からのみならず発掘当時でも盗掘との判断を免れ得ないような記録が残されている。また、戦前のアイヌの遺骨収集を目的とした墓の発掘調査では、詳細な記録保存がなされておらず、時代性や文化的特性についての情報が欠落している。そのため現在の研究水準から見て、学術資料としての価値が大きく損なわれた。学術界や研究者は、収集経緯について可能な限り明らかにすべきであり、アイヌを含む社会に対して説明する義務がある。
さらに発掘後の遺骨と副葬品の保管状況については、人の死と関わる深刻かつ繊細な問題である点が十分に配慮されずに、必ずしも誠意ある対応がなされてこなかった。このことについて研究者は深く反省し、今日社会的に批判される状況にあることをしっかりと受けとめるべきである。
上記のようなこれまでのアイヌの遺骨と副葬品について行なわれてきた調査研究や保管管理の抱える課題について、学術界と個々の研究者は人権の考え方や先住民族の権利に関する議論や国際的な動向に関心を払い、その趣旨を十分に理解する努力が足りなかったことを反省し、批判を真摯に受けとめ、誠実に行動していくべきである。今後、研究者には、研究の目的と手法をアイヌに対して事前に適正に伝えた上で、記録を披瀝するとともに、自ら検証していくことが求められる。学術界と個々の研究者は、このような検証なくして、自らの研究の意義や正当性を主張する根拠が希薄となることを自覚しなければならない。」(3-4.)

資料の収集経緯について明らかにし、誠意ある対応が求められているのは、アイヌ民族に対してだけであり、他民族については求められていないということなのだろうか。
研究倫理は、普遍的なものである。特定の研究対象のみに適用されて、それ以外はどうでもいいというものではないはずである。

「自らの研究の意義や正当性を主張する根拠が希薄となることを自覚しなければならない。」

最後に些細な点を一つ。
本文でも文献欄でも、東京帝国大学の「原田淑人」が一貫して「原田淑仁」と表記されているのはなぜだろう?

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戦争中の大陸での振る舞いやアイヌの遺骨の問題だけではなくて、広く研究者のエゴや倫理観というものを考え直す必要があるのは確かでしょう。岩手県博で他から預かっていた資料を自分の研究のために無断で切り取った事件がありましたが、このようなことが今でも起こっているわけですから、ましてや過去の出来事に関して誠意をもって対処するような方向へ意識が向くことは難しいでしょう。
by お名前(必須) (2020-03-27 20:42) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「研究倫理」には、広く誰にでも適用される普遍的なものとそうではなく歴史性を必然的に抱え込むものがあり、両者は峻別すべきと考えます。所有者に許諾を得ることなく借用資料を改変してはならないというのは前者です。過去に侵略した側とされた側、支配した側とされた側の違いに基づく対処の在り方は後者です。近代における植民地主義を背景に学問を形成した考古学は、「脱植民地」(ポストコロニアル)という課題を避けて通れません。日本における「中国考古学」の関係者の間で、こうした課題について議論されることを期待します。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2020-03-28 18:42) 

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