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徐2010『植民地主義の暴力』 [全方位書評]

徐 京植 2010 『植民地主義の暴力 -「ことばの檻」から-』高文研

「「国民主義」とは、「国家主義」と区別して暫定的に用いる用語である。両者はいずれも英語に訳せばナショナリズムとなるが、いまから問題にしようとする「国民主義」は、いわゆる先進国(旧植民地宗主国)のマジョリティが無自覚のうちにもつ「自国民中心主義」を指す。「国民主義」は多くの場合、一般的な排他的ナショナリズムとは異なるように見え、当事者も自分自身をナショナリストとは考えていない。それどころか「国民主義者」は自分をナショナリズムに反対する普遍主義者であると主張することが多い。彼らは自らを市民権の主体であると考えている。
しかし、その一方で彼らは自らが享受している諸権利が、本来なら万人に保証される基本権であるにもかかわらず、近代国民国家においては、「国民」であることを条件に保証される一種の特権となっているという現実をなかなか認めようとしない。国民主義者は自らの特権には無自覚であり、その特権の歴史的由来には目をふさごうとする傾向をもつ。したがって国民主義者は「外国人」の無権利状態や自国による植民地支配の歴史的責任という問題については鈍感であるか、意図的に冷淡である。この点で、「国民主義」は、一定の条件のもとで排他的な「国家主義」とも共犯関係をむすぶことになる。」(64.)

生まれながらにして特権から排除されている者からの生まれながらにして特権を保証されている者への提言である。国家主義はともかく国民主義については、人の足を踏んでいる者はとかく踏まれている者の痛みに気付かないという側面に気付かされる。

「「慰安婦問題」を、法が禁じている戦時の犯罪行為に違反しているかどうかという狭義の「戦争責任」論の枠内でのみ論じていては真の解決は望めない。なぜなら、「慰安婦」制度は植民地支配と深く結びついた性奴隷制度であり、その真相解明には植民地支配そのものの責任を問う視点が不可欠であるからだ。しかし、日本では、一切の責任を否認する右派や極右派は別としても、国民の多数が、可能な限りこうした問題を戦時の犯罪行為という狭い枠内に閉じ込めておこうとする傾向を見せている。それは、意識的にであれ無意識的にであれ、前記した「国民主義」に根ざした、植民地支配責任を回避しようとする欲求の現われであるといえよう。」(66.)

ここで述べられていることは、そのまま文化財返還問題に適用される。

「たとえば「慰安婦」問題について、日本国民の多くが、「無理やり縄で縛って引っ張っていったかどうか」という些末な事実関係に関心を集中させ、そのことを完璧に立証できない事例に対しては疑いの目を向ける傾向をもつのも、戦争そのもの、植民地支配そのものへの批判的、反省的認識が欠如しているからだ。こうした傾向は、右派や極右派による否定論ないし歴史修正主義にとって有利な心理的土壌を提供している。」(66-67.)

黒色と灰色を区切る線にこだわるいわゆる「線引き問題」である(五十嵐2019『文化財返還問題を考える』:7.)。

「世界的に見ても、かつて植民地支配を受けた地域の人々からの謝罪や補償を要求する声は、長年にわたり黙殺されてきた。これは全世界的に帝国主義支配がまだ終わっていないことを意味する。植民地支配責任の否定という防御線は、いわゆる先進国(旧植民地宗主国)が国際的に連係して張っている共同の防御線であるといえる。逆にいえば、日本に朝鮮植民地支配の清算を要求することは、帝国主義支配と植民地支配の清算を求める全世界的な潮流に合致する普遍的な意義をもつのである。」(67.)
「…「植民地支配責任の回避」という先進国共通の防御線を守るために頻繁に使用されたレトリックが「道義的責任」である。」(69.)

「女性のためのアジア平和国民基金」の「お見舞い金」なるものも、韓国大法院における徴用工裁判の判決に対する反応も全てここに起因する。2001年のダーバン会議における奴隷制度・奴隷貿易の補償要求に対する欧米諸国の反発も同じである。

「…どこまでも植民地支配責任を回避しようとし、そして、それができない場合でも、「法的責任」を否定して「道義的責任」の水準に止めようという、先進国(旧植民地宗主国)の共同防御線がはっきりと見て取れるのである。もちろん、このようなレトリックは「道義」という言葉の本来の意味を否定する、意図的な誤用でしかない。「法」が未整備であった状況での犯罪、あるいは「法」の主体となることを歴史的に否定されてきた人々に対する犯罪、これら現存する「法」の範囲を超える犯罪の責任を問い、補償を行なっていくためにこそ、「法」の上位概念としての「道義」が問題となるのである。そして、場合によっては、このような「道義」の認識にもとづいて新たな立法が行なわれ、「道義的責任論」が新たな「法的責任」を生み出すことにつながる。(中略)いうならば旧植民地宗主国とその国民の多数派は「道義的」という言葉を責任回避のレトリックとして用い、旧被支配諸民族はあらたな法的責任の源泉として用いようとしているのである。ここに「道義」という概念の定義をめぐる反植民地闘争が繰り広げられているともいえる。」(70-71.)

なぜ「返還」という言葉を忌避して訳の分からない「引き渡し」に固執しているのか、その転倒した無理無体さも、こうした文章を通じて明らかになる。「道義」という言葉で述べられている内容は、私が「エシカル(倫理的)な社会を求めて」(五十嵐2019:44.)と表現したことである。

「証人がいないのではない。証言がないのではない。「こちら側」の人々が、それを拒絶しているだけだ。グロテスクなのは「こちら側」である。私たちがいま生きているのは「人間」という理念があまねく共有された単純明快な世界ではない。断絶し、ひび割れた世界だ。それでもなお、断絶の深みから身を起こした証人たちが、「人間」の再建のために証言しているのだ。だが、「こちら側」の人々は保身や自己愛のために、浅薄さや弱さのために、想像力の貧しさや共感力の欠如のために、証人たちの姿を正視せず、その声に耳を傾けようとしないのである。」(277.)

ここで述べられている「証人」あるいは「証言」とは、アウシュビッツからの生還者の意である。しかし全く同じことが植民地本国にある植民地由来の不当な文化財に該当する。
「グロテスクなのは「こちら側」である。」

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