太田1998『トランスポジションの思想』 [全方位書評]
太田 好信 1998『トランスポジションの思想 -文化人類学の再想像-』世界思想社
20年ほど前、近現代考古学や<遺跡>問題について思い悩んでいた時分に、大いに刺激を受けた書物である。今、改めて読み直して、改めて刺激を受ける。私にとって「好著」とは、自分の抱えている問題に新たな示唆を与えてくれる書物である。深みまで降りていける手助けとなるような、新たな思考を触発するような。
「アイヌの人々から発せられた批判の一つは、民族の誇りを保持しつつ、現代日本社会で生きる希望を否定する語りが、アイヌ研究には「客観的」研究という名目に隠れて存在したことである。まず、アイヌ研究の未来は、そのようなアイヌの人々の主張と連動する学問となる必要があろう。アイヌの人々の抵抗に共感し、そのような活動を支援する研究、少なくとも、研究の社会的な意義をつねに考察する学問として成立する必要があろう。」(132.)
アイヌの人からの問題提起を受けて「私たちの資料入手の全てが遺法であったとは思わない」と開き直りともとれる発言とは相容れない言説である。
「さらにアイヌの人々からのアイヌ研究への異議申し立てを受けて、アイヌ研究がより開かれたディスコースへと展開する可能性がある。すなわち、アイヌについて語る権利を有するのは、研究者のみではなく、同様の権利がアイヌの人々にも当然ある。研究者が民族誌のなかで「客観的視点の優越」という考え方によって構築する権威は、アイヌの人々が自らを語るために主張する「局内者の視点の優越」という考え方との間でネゴシエートされなければならない。発話の位置についてのネゴシエートが条件であるスペースの方が、発話の位置が<規則>により固定されているディスコースよりもはるかに健全であろう。」(132.)
「日本考古学」とは、日本人考古学者が日本を対象にして行っている考古学を意味している。それに対して「アイヌ考古学」とは、アイヌ考古学者がアイヌモシリを対象にして行っている考古学を意味していない。あくまでも日本人考古学者がアイヌを研究対象として行っている考古学である。何故なのか!
「アイヌ考古学」は「日本考古学」の一部なのか?!
「アイヌ考古学」は「日本考古学」の一部なのか?!
「日本における人類学が、前述したように、歴史にたいして批判的な認識をもたなければ、欧米人類学の「模倣」(もちろん、<コピー>が<オリジナル>よりも優れていることもあろうが)か、あるいは閉ざされた「土着主義」、と外部からみなされ続けよう。いいかえると、バーバ(1992[1986])のいう「植民地的言説」のなかで、「模倣」と「土着主義」という二極を反復するものとして日本の人類学は表象され続ける運命にある。日本の人類学も、アイヌの人々同様に、未来の姿を想像するためには、現在に見合った過去の意味(歴史)をみいだす歴史的想像力が必要である。」(134.)
「エントロピックな語り」(29.)というのがある。伝統的で真正で純粋な文化は失われつつある、あるいは既に失われてしまったとする見方である。そうした見方の問題性を指摘したのが、サイードであり、クリフォードであることが強調されている。
考古学にも同じような「語り」がある。すなわち「先史中心主義」である。古くなればなるほど考古学の本来の研究対象であり、新しくなればなるほど考古学の本来の研究対象ではないとする考え方である。
考古学にも同じような「語り」がある。すなわち「先史中心主義」である。古くなればなるほど考古学の本来の研究対象であり、新しくなればなるほど考古学の本来の研究対象ではないとする考え方である。
「考古学においても、近代としての自己から切断された未開趣味(エキゾチシズム)としての他者(先史イメージ)を構成するという人類学と同質の構造を問い直す必要がある。」(五十嵐2000「近現代考古学」『現代考古学の方法と理論Ⅱ』:53.)
「考古学の認識構造としての先史中心主義は、近現代考古学という認識を積極的に導入することで顕在化される。先史中心主義は、また<考古イデオロギー>と言い換えることも可能である。先史社会を復元する特権性が考古学に付与されているという意識が<考古イデオロギー>であり、多くの研究者を呪縛している。特権が実は損失であると気付き、考古学的認識の枠組み(他者表象)を内側から脱中心化していく試み(内破)が要請されている。」(五十嵐2004「近現代考古学認識論」『時空をこえた対話』:343.)
「では、「誰のために語るのか」。短絡的という謗りを免れないかもしれないが、支配的な構造に苦しむ人々が解放へ向かう社会運動と共鳴するような語りを支持したい。むろん、解放への運動が、あたかも一枚岩であるなどという思い込みはない。だが、そのような制約下でも、人類学者が文化について語る活動は、学問的であるからこそ、社会的であり、よって政治的な文脈からは遊離したものではない、という自覚をもつことは大きな前進であると私は思う。この点は、人類学者の仕事が客観的研究であり、それゆえに非政治的でありえるという立場への批判である。すなわち、仕事の客観性を主張することは、それ自体が政治的スタンスの表明であることを忘れてはならない。」(136-7.)
会員からの問題提起について「国政レベルでの事案であること」を理由に審議事項として却下した研究者集団は、そのこと自体が明白な「政治的スタンスの表明であることを忘れてはならない」。
「植民地主義やその後の欧米社会のグローバルな覇権構造に支えられて発展してきた人類学。もちろん、日本もその構造の一翼を担うようになり、人類学も飛躍的に拡大再生産してきた。しかし、いま、覇権構造に揺らぎがみえ、人類学の権威も疑問に付されだした。そのような権威が完全に消滅しないもでも、ポストコロニアル批判の勢いは、ますます無視できない状況になってきた。これら一連の批判に耳を貸さず、学問的な制度の再生産に腐心するのではなく、反対にこの制度を支えてきた社会的要因全体を疑ってみることが重要である。そうして初めて、文化の語りの未来がみえてくるのではないだろうか。」(138.)
今から20年以上も前にこのように述べた筆者にしてみれば、「アイヌ民族に関する研究についての研究倫理指針」について「「時代のあだ花」という印象を与えるかもしれない」(太田2019「坂野徹編『帝国を調べる』」『文化人類学』84-1:113.)とするのも当然なのかも知れない。なぜなら「すでに日本民族学会研究倫理委員会の報告として『民族学研究』誌上においても、再三にわたりとりあげられてきている」(117.)からである。先の法政大学におけるアイヌ研究集会において、こうした点について質問しようかとも思ったが、さすがに司会者に質問するのもはばかられて自制した経緯がある。
突然ですが失礼します。
ここにコメントするのが良いのかわかりませんが,日本考古学協会HPの会員向けページの理事会議事録(2020年1月)をみると,退会者の氏名が今まで非公表だったのにこの回から公表されるようになったみたいですね。
もろに個人情報なので,いいのかな?と思うのですが,該当者に公開してよいか確認はあったのか気になるところです。でも,全員公開になっているところから判断すると,確認とってない気がします・・・今まで非公開でしたし。掲載時のミスですかね。
by 通りすがりの業界人 (2020-03-12 20:25)
10年前の総会で問題提起して以来、「お茶を濁す」だけで何ら実質的な動きが見られず、「潮時」と判断しました。私は公表だろうが非公表だろうが、どちらでも構わないのですが、確認などは一切ありませんでした。社会的な責任を果たしうる新たな器をとも思いますが、現状では(すなわちここ10年の反応あるいは反応のなさを見る限り)「機が熟していない」と思わざるを得ません。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2020-03-13 06:16)