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遺跡とは(1) [遺跡問題]

しばらくは、「どっぷり」<遺跡>漬けである。

それでは、<遺跡>とは、いったい何なのだろうか?
「我 発掘す、故に<遺跡>あり」と言えるのだろうか?

<遺跡>について、考えを巡らせていくと、今までは考えもしなかったこと、あるいはぼんやりと感じてはいてもはっきりと見えてこなかった事ごとが、次第にくっきりとその問題の所在を明らかにし始めてくる。

<遺跡>は、本当に存在しているのだろうか?
もし、存在しているとしたら、どのような存在なのだろうか?
そして、<遺跡>の存在は、遺物や遺構・部材の存在と同じなのだろうか?

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暗黙の前提、そして新たな公理 [遺跡問題]

考古学に多少なりとも関わりのある人なら誰でも知っていること、知っているのに誰も言わないことがある。
それは、
「全ての壊される<遺跡>を、調査することはできない。」
ということである。

<遺跡>を区切ることはできない。
であるから、「あらゆる場所が<遺跡>である。」
これが、近現代考古学がもたらした新たな第一公理である。

第一公理から導かれるのは、
「あらゆる場所を調査することは、できない。」
これが、新たな第二公理である。

第一公理と第二公理は、ものごとの裏表、表裏一体の言明である。
この二つの公理について、きちんと考えるのが、私たちに課せられた責務である。

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考古学性とは(15) [遺跡問題]

近藤1976の第二章「考古資料の構造」第4節でようやく「遺跡」と題される。
前半は、小野山1985と同じく「登呂」・「津島」・「加曾利」・「月の輪」といった著名な<遺跡>を挙げての「遺跡名称論」である。
そして、「遺跡」の定義として以下が示される。

「・・・遺物・遺構の諸関係の連鎖によって示される空間的な拡がりのうちにあるあらゆるものの総体である。」
「したがって、遺跡は、一定の拡がりのうちにある遺物・遺構のこうした諸関係の総体であるということになる。この諸関係の有機的結合総体こそが、遺跡の遺跡たる所以であって、一定の人間集団の全活動の化石である。しかし、諸関係は、実体としての遺物・遺構なしには成立しえないから、現実の遺跡は、一定の拡がりの内にある遺物・遺構とその諸関係の一切によって構成された構造体としてあらわれる。その場合の「一定」のとりかたは人によってさまざまでありうるかもしれないが、関係の連続とその限界をどう捉えるかに基本的にはかかっているといってよい。」(近藤1976:p.22-23)

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考古学性とは(7) [遺跡問題]

「一つの遺跡は孤立して存在したのではない。例えば山間の盆地で、同時代の遺跡としてA集落遺跡とB墳墓遺跡があると、A集落に居住した人々がB墓地に葬られたことは明らかである。広大な平野部では、このような関係は必ずしも確定できないが、遺跡相互に有機的な関連がかつて存在していたとする観点から研究を進めることが必要である。そして周辺の景観との関係も忘れてはならない。」(小野山1985:p.25)

何の問題意識もなく読めば、何の違和感も感じずに読み流してしまう部分である。
しかし第2考古学としては、常にある具体的な課題をもって読み解かなければならない。
私がこの文章に当て嵌めようとして手にしているピースの名前は、「江戸-東京<遺跡>」である。

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考古学性とは(6) [遺跡問題]

「そして大字、小字あるいはもっと小さい部分の地名を冠して、岩宿遺跡・登呂遺跡などとよぶ。加曾利貝塚や、椿井大塚山古墳は、加曾利貝塚遺跡・椿井大塚山古墳遺跡を便宜的に省略したものであろう。その時代の名称の分るものについては、平城宮跡とか武蔵国分寺跡などというが、これも遺跡を簡略にしたものである。寺院址で名称の分らないものは、多くの場合に地名を冠して、例えば伊丹廃寺とよぶ。これも遺跡の省略されたものであろう。」(小野山1985:p.25)

挙げられている具体的な7箇所の<遺跡>名称は、著名なものばかりである。ある意味著名だから挙げられているともいえるのだが。著名である、ということは、ある特定の時代痕跡が顕著であったから、著名であるともいえる。

すなわち、岩宿→旧石器、登呂→弥生、加曾利→縄紋、椿井大塚山→古墳、平城宮・武蔵国分寺・伊丹廃寺→古代といった具合である。
それが故に、著名時代以外の時代痕跡は、連想しにくいようになっている。
例えば、岩宿<遺跡>の古代は? 
登呂・平城宮・伊丹廃寺<遺跡>の近現代は? 
加曾利・椿井大塚山・武蔵国分寺<遺跡>の旧石器は? 
といった具合である。
補足すれば、こうした事態は、最近、武蔵国分寺<遺跡>の旧石器資料を報告した者として、切実なものがある。

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考古学性とは(5) [遺跡問題]

回想シリーズが思わぬ長期連載になってしまった。お言葉に甘えて、無理をせずに、休める時には休みながら、ボチボチ書き綴っていきたい。
取りあえずは、近現代考古学的視点から見た考古資料論の読み直しである。
題材は、小野山 節1985「資料論」『岩波講座 日本考古学1 研究の方法』18-41である。

第1章:「歴史を考える資料」と題して、民俗・文献あるいは美術史・建築史などとの相互関係、人工遺物・自然遺物あるいは環境考古学について、差し障りのない内容である。
問題は、第2章:「存在形態による考古資料の分類」で、遺物・遺構・遺跡について述べている。

「遺跡は、遺物や遺構の存在する場所、またはかつて存在した場所であって、一定の拡がりをもつことが多い。したがって人間活動の痕跡が、その時代の関係を保ちながら閉じこめられている可能性のもっとも強いところである。」(p.25)

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江戸遺跡研究会11/16 [遺跡問題]

11月16日の水曜日に東京は上野の東京文化会館の一室で開かれた江戸遺跡研究会の例会に呼ばれて、「遺跡問題」について少し話しをする機会が与えられた。「楽屋口」なる入り口から入り、私と同い年という少しくたびれたしかし昇降スピードはやたらと速いエスカレーターに乗って、4階の会議室に行く。
発表のメインは、現在調査している近世の櫓基礎などについてであったが、それだけでは物足りないので、前振りとして「遺跡名称論」(本ブログ【05-09-05】参照)、すなわち「私たちは、調査対象地にどのような名前を付けてきたのか、付けているのか、付ければいいのか」という点についても述べた。

なにせ会の名前の中央に件の「遺跡」を掲げている研究会である。
「江戸遺跡」とは何か?
そもそも「遺跡」とは何か?
第三者からみて、突っ込んだ議論がなされていなければならないはずである、と勝手に想像していた。

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<遺跡>移動説(補足) [遺跡問題]

<遺跡>移動説といっても、<遺跡>そのものがのそのそ歩いていったり、ずりずり動いていく訳ではない。
その辺を何とかうまく説明できないかと思いあぐねていたが、たまたま廣松渉氏の著書(『哲学入門一歩前 モノからコトへ』講談社現代新書)を読み返していて、量子力学と原子論について朝永振一郎氏に言及しながらの解説がうまくフィットするように思えた。

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<遺跡>移動説 [遺跡問題]

1915年、ドイツの気象学者アルフレッド・ウェゲナー(Alfred Wegener)は、後に「大陸移動説」と称される大胆な仮説を提唱した。
こちらは、それから90年後の「<遺跡>移動説」である。

<遺跡>は、大地に土地に固着している。不動のものである。地面を掘り窪めた「遺構」や土壌に埋没している「遺物」から構成されるのだから、決して移動することはない。もし動くとしたら、大規模な土壌流出や地殻変動以外には有り得ない。
本当にそうだろうか? 私もずっとそう考えてきた。ああ、いつ来ても同じ場所で同じように迎えてくれる懐かしい<遺跡>。

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<遺跡>問題(補3) [遺跡問題]

最後に、私のなかで、どのようにして<遺跡>問題が浮上してきたのかをややエッセイ風に。

90年代の前半から友人と近現代考古学の現状をまとめようと共同研究を開始したが、その時点では<遺跡>に関する明確な問題意識を形成するまでには至らなかった(五十嵐・阪本1996「近現代考古学の現状と課題」『考古学研究』43-2)。
その後、1996・97年に三鷹市新川所在の「島屋敷遺跡」の調査に携わったことが一つの転機となった(1998『島屋敷遺跡』東京都埋蔵文化財センター第55集)。そこにはバスクリンで有名な津村順天堂の薬用植物園が、「島屋敷遺跡」はおろか「三鷹市立第5中学校遺跡」・「調布市緑ヶ丘遺跡」を含む広大な範囲に展開していたことが明らかになった(五十嵐1999d「幻の津村薬用植物園」『東京都埋蔵文化財センター研究論集』第17号)。近現代<遺跡>は、現在の<遺跡>地図が示す<遺跡>範囲に納まりきらない。この当たり前の事柄について、身をもって実感することができた。

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