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<遺跡>問題(補3) [遺跡問題]

最後に、私のなかで、どのようにして<遺跡>問題が浮上してきたのかをややエッセイ風に。

90年代の前半から友人と近現代考古学の現状をまとめようと共同研究を開始したが、その時点では<遺跡>に関する明確な問題意識を形成するまでには至らなかった(五十嵐・阪本1996「近現代考古学の現状と課題」『考古学研究』43-2)。
その後、1996・97年に三鷹市新川所在の「島屋敷遺跡」の調査に携わったことが一つの転機となった(1998『島屋敷遺跡』東京都埋蔵文化財センター第55集)。そこにはバスクリンで有名な津村順天堂の薬用植物園が、「島屋敷遺跡」はおろか「三鷹市立第5中学校遺跡」・「調布市緑ヶ丘遺跡」を含む広大な範囲に展開していたことが明らかになった(五十嵐1999d「幻の津村薬用植物園」『東京都埋蔵文化財センター研究論集』第17号)。近現代<遺跡>は、現在の<遺跡>地図が示す<遺跡>範囲に納まりきらない。この当たり前の事柄について、身をもって実感することができた。
その頃、ある書籍に「近現代考古学」という項目を担当する機会が与えられて、その頃に感じたことを記した。「一枚の遺跡地図に単一の遺跡範囲を確定し、対応する遺跡リストの項目に該当する時代名称を列記するといった現行の埋蔵文化財システムは、多くの点で破綻をきたしているのは明らかである。」(五十嵐2000a「近現代考古学」『用語解説現代考古学の方法と理論Ⅱ』51-62)。
1998~2002年まで、国分寺市「武蔵国分寺跡遺跡北方地区」の調査に携わった(2003『武蔵国分寺跡遺跡北方地区』東京都埋蔵文化財センター第136集)。野川源流域の台地縁辺に沿って、多少の埋没谷など微地形に関わらず連綿と続く遺物集中部を目にしながら、「これは野川流域全体が一つの<遺跡>である」と思わざるを得なかった。そんな折、関東の旧石器研究グループが「野川流域遺跡、その分布・立地・遺跡構造」と題して小討論会を行うという(2004『石器文化研究交流会発表要旨』石器文化研究会)。雨の降る府中市に出かけていった。「天文台」「野川」「武蔵野公園」「中山谷」「西之台」「はけうえ」・・・さすがビッグ・ネームばかりだ(同88-89「野川流域旧石器時代遺跡分布図」)。ところが最上流部に一際大きな四角い「遺跡」が! 何とこれが、「武蔵国分寺跡」として「遺跡地図」に登載されている範囲そのままじゃないか! 古代の国分寺伽藍配置に規制された「旧石器時代遺跡」。こりゃだめだ。なんとかしないと。そう言われれば、ビッグ・ネームたちの「遺跡分布範囲」も、上層にある縄文「遺跡」の範囲を何の検討もなしになぞっただけじゃないか。
2003年には、ある道路のセンターラインで西東京市と練馬区の境界線が引かれるという道路部分の水道本管埋設に関わる調査に携わった(2004『下柳沢遺跡第5次調査』東京都埋蔵文化財センター第150集)。隣接した練馬区側の下水道工事に伴う調査では、練馬区「富士見池西方遺跡」として調査・報告されている。たまたま今回は、西東京市「下柳沢遺跡」である。同じ遺構の西半分は「下柳沢遺跡」、東半分は「富士見池西方遺跡」などということが現実に目の前で起きている。 隣接する練馬区側の資料との接合作業はできなかったが、一つの土器の半分が富士見池西方で、残り半分が下柳沢なんてことになれば、これは「遺跡間」接合なのか? どう考えても、現在の埋文制度の基盤となっている行政区画単位によって設定された「包蔵地間」接合とでもしなければ、学問的に筋が通らないのではないか? <遺跡>と「包蔵地」の二重構成(使い分け)を提唱した所以である。
そして、カラス天狗さんと「遺跡幻想論」と題したメイルのやりとりをしたのは、そんな2003年の夏ごろでした。そうした中から、「近現代考古学認識論」(五十嵐2004b『時空をこえた対話』)が生まれてきたのでした。

今まで慣れ親しんできた「遺跡」という用語。
殆ど「考古学」という言葉と表裏一体でもあった「遺跡」。
まさか「遺跡」という言葉を手放すことになるなんて。
しかし、近現代考古学という新たな地平を見据えたとき、
重複する痕跡群(パリンプセスト)という視点に立ったとき、
決然と断行せざるを得なかった。

「安易に使うことなかれ、<遺跡>なる単語」。


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コメント 3

sakamo

伊皿木さんこんばんは。
近現代考古学を契機に〈遺跡〉問題にかかわっていく過程が改めて整理され、
とてもよく理解できました。
個人的には、考古学研究の「最前線」がいまどのようになっているのか、知る
よしもなくなってきているのですが、昨今の社会情勢のもとで「埋文体制」自体
が縮小されていくなか、近現代考古学が論じられる機会も減っているような印象をもちます。
近現代考古学が、一時的に膨張していた「埋文体制」のバブル現象に終わる
ことを危惧します。
それにしても、カラス天狗さんの、「記憶の途絶の上にあぐらをかいているのが、従来の考古学であるとすれば、証言するヒトがなお存在する近現代考古学は、考古学者に、たとえば、歴史認識問題へのコミットを要請するもの」というコメントは素敵ですね。
歴史認識問題にコミットしたくない大方の考古学者にとっては、近現代考古学
がバブルに終わってくれた方がむしろよいのかも知れませんが。
by sakamo (2005-09-07 00:25) 

五十嵐彰

sakamoさん、ようこそ。
歴史認識問題といえば、大森貝塚を調べていて気が付いたのですが、モースの英文報告書"SHELL MOUNDS OF OMORI"の表紙最下部に、2539(1879.)なる出版年が記されています。和文報告書「大森介墟古物編」が翻訳された時に、本文中の推定年代が改竄されていることは既に指摘されていますが(勅使河原彰『日本考古学史』東大出版会など)、まさに日本考古学の出発点である英文報告書に既にある呪縛が刻印されていたのです。モース自身が進んで記すはずもありませんから、出版元であるTHE UNIVERSITY TOKIOからの強い圧力があった(あるいは無断で挿入した?)ことが想定されます。
第2考古学には、未だに残るこうした縄目を解き放っていく役割もあるのだと再確認しました。
by 五十嵐彰 (2005-09-07 12:41) 

カラス天狗

カラス天狗です。出発点である大森貝塚調査の皇紀2539年の刻印。この呪いの日本考古学史への刻印、自覚が必要です。この呪縛は、100年過ぎた現在も有効なようです。戦後の出発点である登呂遺跡発掘の学史の評価は果たして適当か? そして平安博物館事件、捏造事件・・・と、本来、学史に刻印すべき記憶を、刻印できないできた日本考古学史がそこにある。ベンヤミン風に言うならば「正史を逆なでする」日本考古学史の構築が必要ですね。それこそ断片化した記憶のかけらを集めつつ・・・・。sakamoさん、またお会いしましょう。
by カラス天狗 (2005-09-07 23:29) 

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