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痕跡研究(はじめに) [痕跡研究]

ここ数年、関心を寄せる領域として「痕跡研究」なる一群がある。もちろん、<遺跡>問題も「痕跡研究」の一部分が表出した領域である。何より、考古学自体が「痕跡研究」に包含されるのだから、考古学の在り方を問う「第2考古学」において「痕跡研究」は、中心的な課題となる。
そのつど発表した論考などを位置づけながら、できれば新たな方向をも見出していきたい。
まず指針ともなる文章を。

「人間や動物がつけた足跡を追っていくと、足跡をつけた人間や動物がどこへ、どの方向へ行ったかがおよそわかる。足跡をつくったものが不在でも足跡を手がかりとして作ったものを把握することができる。考古学上の化石も一種の足跡であり、つまり痕跡(trace, Spur)である。歴史上にはさまざまの遺跡があるが、これも痕跡である。私たちは、化石や遺跡を手がかりにしてかつて現実に生きた動物や人間の生活を再構成する。・・・ 人びとが見過しがちな細部、ささやかなものに鋭敏に反応する(猟犬のように痕跡=足跡をつける)思想家はすべて痕跡の思想家であって、彼らは一見小さいとみえる痕跡から世界の真実を嗅ぎ出す。痕跡の現代性を強調した二〇世紀の思想家は、エルンスト・ブロッホとワルター・ベンヤミンである。後に、J・デリダが再び痕跡をとりあげ、痕跡の追跡技法を脱構築としてうちたてる。痕跡への鋭い反応という点では、ミシェル・フーコーの諸研究はすべて痕跡学ということができる。事実、フーコーの方法は「知の考古学」といわれるが、元来考古学は痕跡学なのである。」(今村仁司1988「痕跡」『現代思想を読む事典』講談社:235-236)

こうした考えを知ると「痕跡研究」が考古学とか物質文化研究とかの狭い枠組を遥かに超えて、20世紀以降の現代思想そのものの課題であることが了解される。考古学者は、第1考古学に止まってはいけない、「一見小さいとみえる痕跡から世界の真実を嗅ぎ出」さなければならないのだ。

「痕跡」という概念が有する現代思想上の意義については、佐藤啓介さんの「痕跡的過去」改題「ぎゅうぎゅうですかすかの世界」(佐藤啓介2004「あとにのこされたものたち -考古学から哲学への還路」『往還する考古学』第2号:59-68、近江貝塚研究会論集2)において適切な位置づけがなされている。(佐藤2004には、今後繰り返し立ち戻り触れていくことになるだろう。)

私の中での「痕跡研究」は、ある意味全くの偶然を契機に浮上してきた。
1994年からある石器研究グループで石割りをしながら石器製作の実験研究を行なっていた。何回かの口頭発表を経て、そろそろペーパーにしようと分担執筆を開始し、読み合わせをしていた2000年の夏ごろ、石器の製作実験を「実験痕跡研究」としてミドルレンジ研究の一環として位置づけようと提案した。ところが、研究グループの仲間からは総すかんを受け、受け入れる余地すらなかった。そこでは「自分の研究としてやれば」という意の発言もなされ、グループ研究の難しさを痛感した。
そこから生まれたのが、五十嵐2001「実験痕跡研究の枠組み」『考古学研究』47-4:76-89だった。


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