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遺跡とは(1) [遺跡問題]

しばらくは、「どっぷり」<遺跡>漬けである。

それでは、<遺跡>とは、いったい何なのだろうか?
「我 発掘す、故に<遺跡>あり」と言えるのだろうか?

<遺跡>について、考えを巡らせていくと、今までは考えもしなかったこと、あるいはぼんやりと感じてはいてもはっきりと見えてこなかった事ごとが、次第にくっきりとその問題の所在を明らかにし始めてくる。

<遺跡>は、本当に存在しているのだろうか?
もし、存在しているとしたら、どのような存在なのだろうか?
そして、<遺跡>の存在は、遺物や遺構・部材の存在と同じなのだろうか?

ある「もの」が存在するにあたって、「自己同一性」という性格が実体的存在の条件とされている。
例えば、土器ならば作られた時から捨てられる時まで「その土器」は「その土器」として同一性が保たれているし、石器も破損・再生という過程を経て形はいかに変わろうとも「この石器」は「あの石器」とは異なるという点で同一性が保たれていると言える。

それでは、<遺跡>なるものに、そうした同一性が存在するだろうか?
ある場所に展開された様々な時代痕跡の集まりについて、同一性があるということが、遺跡が遺跡として、すなわちある実体をもった「もの」として存在しうる要件となる。

ある時(x1)にある場(y1)において展開された人間行動(A)によって残された痕跡(a)は、同じ時(x1)に別の場(y2)における人間行動(B1)による痕跡(b1)とは、区別することができる。
痕跡(a)と痕跡(b1)は、空間的に隔てられた隔離性をもって、相互に異なること、すなわちそれぞれも自己同一性が保たれている。

それでは、
ある時(x1)にある場(y1)における人間行動(A)による痕跡(a)と、時を隔てた時(x2)における同じ場(y1)における人間行動(B2)による痕跡(b2)とは、やはり区別することが可能である。
痕跡(a)と痕跡(b2)は、異なる時間(異時性)による同一場における重複、例えば「切り合い」という現象によって、区別すること、すなわちそれぞれの同一性が保たれている。

言い換えれば、第1の同時異場パターンにおいて「異なる遺跡」と認定されるのと同様に、第2の異時同場パターンにおいても「異なる遺跡」とされなければならないのではないか。

にも関わらず、第2の異時同場パターンが「同一の遺跡」とされるのは、何故か?
それは、異なる痕跡、同一性を有さない痕跡という「もの」認定を、同一の場という「状態」認定が覆い隠していることによるのではないか。

それが、仮に「遺構」と称される「穴ぼこ」だった場合、例えば、縄紋の住居址と弥生の住居址と中世の住居址とが、全く同一場に形成されていたとしても、同一の遺構としては、すなわち同一名称で呼ばれることは、決してないであろう。

同一場に展開された異なる時代痕跡には、同一性が存在しない。
故に、<遺跡>なるものには、実体的なものである場合に欠かせない「同一性」という要件が満たされているとは言えない。
このことは、繰り返し、何度でも確認しておかなければならない。なぜなら、私たちにとって、「遺跡が存在する」というのは、余りにも強固な常識であるからだ。

結論:
私たちが<遺跡>と称している在り方は、ある場にある「もの」が存在している「状態」、それもある特別な「状態」に過ぎない。


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