SSブログ

2021『採掘 - 採取 ロジスティックス』 [全方位書評]

2021『採掘 - 採取 ロジスティクス -批判地理学の最前線-』(『思想』第1162号、岩波書店)

・過度な採取主義の行方 -資本の構成的外部をめぐる政治-(土佐 弘之)
・採掘 - 採取、ロジスティクス -現代資本主義批判のために-(北川 眞也、箱田 徹)
・多数多様な採取フロンティア -現代資本主義を掘り起こす-
      (サンドロ・メッザードラ、ブレッド・ニールソン [箱田 徹 訳])
・身体 - 領土 -戦場としての身体-(ベロニカ・ガーゴ [石田 智恵 訳])
・採掘主義と家父長制 -現代ラテンアメリカのフェミニズム-(廣瀬 純)
・ロジスティクスによる空間の生産 -インフラストラクチャー、労働、対抗ロジスティクス-
      (北川 眞也、原口 剛)
・ロジスティクスと採掘主義、あるいは「釜ヶ崎=地中海的な空間」をめぐって
      (S. メッザードラ [聞き手・訳 原口、北川])

非常に刺激的な内容である。

「本小特集の目的は、「採掘 - 採取(extraction)」と「ロジスティクス(logistics)」という二つの概念を用いて、資本の今日的オペレーションを批判的に分析することにある。資本主義批判の手立てとしての採掘 - 採取とロジスティクス。このような考えは、日本語環境ではそれほど馴染みがあるものではないだろう。しかし、資本がおのれの増殖のために、地球を包摂し大地を暴力にまかせて裁断するとき、生きた労働と交差しその肉体を侵襲するとき、採掘 - 採取とロジスティクスは、核心的な役割を果たしているのだ。」(北川、箱田:8.)

当初の石炭から石油、天然ガス、シェール・ガスそしてウランに至るまでのエネルギー資源、金、銀、鉄そしてダイアモンドなどの貴金属やリチウムなどのレアメタルを地中から取り出すことで直接的な利益を得る「採掘主義」に対して、同じように地中から取り出すのだが、直接的な利益は生み出さない、しかし間接的な利益を生み出す埋蔵文化財の「発掘主義」なるものを考える。
「地中から何かを取り出す」という意味で、鉱業(採掘:extraction)と埋文業(発掘:excavation)は類比以上の何かがあるはずである。
今まで考古学の世界で、そんなことを考えた人は一人もいないだろうが。

「そうした中で発せられた「全ての発掘を中止せよ」という、この痛烈なまでの自己否定を含む問題提起を、当時、すでに名を成した研究者から、未成熟な夢見る学生までを含む考古学徒の一体何人が、痛切に受け止めようとしたのであろうか。しかし、今も繰り返し思う。この問題提起に、真剣に向き合う必要があったのだ、と。あるいは、向き合い続けるべきなのだ、と。」(北郷 泰道2007「1970年代の考古学 -そして「全ての発掘を中止せよ」-」『考古学という現代史 -戦後考古学のエポック-』:195.)

誰が、いつ、どのようにして発した言葉なのか判然としないが故に、何かしら考古学における単なるゼネストの呼びかけではないだろうと漠然と考えていた。
しかし今回「反採掘主義」が標榜する「現代資本主義批判」というコンテクストに、半世紀前に発せられたこのフレーズを対置した時に、その意味するところがようやく浮かび上がってきた。

「”5月広場の母たち”は、たんに人権尊重を掲げるリベラルな運動でも、追悼だけに専念するような運動でもなく、70年代の反体制闘争の復権を求める運動であり、また、80年代以降の様々な同時代的争議とつねに共闘してきた運動です。」(廣瀬:73.)

半世紀を経ての「復権」である。

「採掘という概念が、遠く離れて無関係に見える景観で展開される闘争どうしをマッピングし、つなげる手立てとなる道筋を見つけることもまた大切だ。」(メッザードラ、ニールソン:15.)

そして異性愛家父長主義を克服することなくして、脱植民地主義は有り得ないことが述べられる。

「家内化と植民地化は不可分である。なぜなら両者は労働力を搾取する様式と領土を従属させる様式において、ある特殊な関係を構成するからである。」(ガーゴ:34.)
「身体 - 領土は、一つの単語として凝縮されることで、身体か領土のいずれかを「欠く」者など存在しないと考えるように私たちに迫る。何も不足していない。そしてそのおかげで脱所有[略奪 deposesion]の過程に、別の仕方で光を照らすことが可能になる。」(同:35.)

勇気ある一人の女性の告発によって隠蔽されていた組織内の歪みが次々と明らかになりつつある軍隊内の性暴力、マスメディアを巻き込んで維持されてきた相互依存のもたれあい構造がさらけ出された芸能プロダクションの性暴力、国際運動会(オリンピック)招致のドタバタや委員長の性差別発言と必然的な贈収賄事件、ユネスコが警告を発しているにも関わらず強行される高輪築堤での再開発、膨大な国費を投入して軟弱地盤の地が埋め立てられる軍事基地の建設、家族主義を標榜する新興宗教団体と政権与党の結託といった一見無関係な事象を「採掘主義」という視点で「マッピング」する。

「今日のラテンアメリカでは、多くの先住民女性が採掘主義と家父長制とに対して同時に闘っている。この二重の闘争を可能にしているのは「テリトリー」という概念だ。採掘主義との闘いは「土地テリトリー」(territorio-tierra)、家父長制との闘いは「身体テリトリー」(territorio-cuerpo)の防衛または回復である。彼女たちにとって、反採掘主義が反家父長制を導くのは必然だ。彼女たちは闘争に「一貫性」を求めている。」(廣瀬:60.)

ある先住民族の<遺跡>を調査する際に、家父長制に基づく共同体の慣習を理由として調査に参加しようとしていた女性の立ち入りが拒まれたという事例
このときは、何とか折り合えないものかと悩んだが、やはり反家父長制が貫徹されなければ反採掘主義も確立されないのである。

「ラテンアメリカ各地での反採掘主義闘争に女性の身体に対する内的暴力がほぼ日常的に伴っているという事態は、多くの先住民女性に次のような歴史認識を与えている。すなわち、採掘主義は、500年前に始まったラテンアメリカの植民地化のその継続としてあるが、家父長制は、植民地化以前にすでに先住民世界に存在していたものであり、したがって、反採掘主義闘争が「脱植民地化」(先住民共同体の主権の回復)としてのみ進められている限り、そこから「脱家父長制化」(despartriarcalizacion)が導かれることはなく、むしろ逆に、植民地化それ自体が先植民地的家父長制を利用しながら進められてきた以上、脱家父長制化なしには真の脱植民地化は果しえないという認識だ。」(廣瀬:61.)

私の考える「採掘主義(発掘主義)」とは、「私の掘った<もの>は、私の<もの>である」という考え方である。こうした考え方から、植民地主義も家父長主義も資本制も発しているのではないか。
ところが実はそうではないのだ、という「否」をつきつけるのが、「反採掘主義」であり「反発掘主義」である。
いや今の日本の埋蔵文化財行政では、出土資料はすべて地元の市町村に移管しているから、出土資料が発掘者に帰属するなどということは当てはまらないのではないか、という人がいるかもしれない。
しかしそれならば、なぜ日本でこれほど収奪文化財の返還が進まないのか、説明がつかないではないか。

「採掘主義(発掘主義)」は、他所から来て掘る人と以前から掘る<場>に暮らす人との力の格差が大きければ大きいほど、その歪み(不正義)が増大する。



nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。