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尾田2022「旧石器研究における石質資料の導入とその意義」 [論文時評]

尾田 識好 2022「旧石器研究における石質資料の導入とその意義 -母岩資料分析の課題解決に向けて-」『研究論集』第36号:1-18. 東京都埋蔵文化財センター

「本稿では、これらの問題の根底をなす「個体別資料」(「母岩別資料」)の分類に関する問題に焦点をあてる。「曖昧」、「不確実」と指摘されることがあるその分類に対して、北海道の旧石器研究で既に実施されている石質分類の本格的な導入を提案する。石質資料を主体とした分析の有効性と限界を述べたうえで、石質資料から母岩資料を推定するための資料操作の方法と基準を検討し、その課題解決を図る。」(2.)

「「曖昧」、「不確実」と指摘されることがあるその分類」とは、「「個体別資料」(「母岩別資料」)」のことだが、「「曖昧」、「不確実」と指摘されることがある」とはどういう意味だろうか。
「「曖昧」、「不確実」と指摘されることがある」が、「「曖昧」、「不確実」と指摘されないこともある」ということなのだろうか。
すなわち誰か「「個体別資料」(「母岩別資料」)」の分類は、「「曖昧」ではない、「不確実」ではない、すなわち「明瞭」で「確実」である」と述べている研究者がいるのだろうか。
「「曖昧」、「不確実」とされることがあるその分類」と「「曖昧」、「不確実」とされるその分類」と「「曖昧」、「不確実」なその分類」とでは、それぞれ僅かな語句の違いであるが、それぞれの隔たりは当初考えていたよりも遥かに大きいことが徐々に分かってきた。

五十嵐1998「考古資料の接合 -石器研究における母岩・個体問題-」、2000「接合」、2002「旧石器資料関係論 -旧石器資料報告の現状(3)-」、2013「石器資料の製作と搬入 -砂川三類型区分の再検討-」、2017「接合空間論 -<場>と<もの>の認識-」、2019「旧石器研究における接合の方法論的意義 -「砂川モデル」の教訓-」と6本もの拙論を挙げて頂いた。
四半世紀前から継続的にこの問題を提起してきたが、今まで誰からもこの問題について正面から取り上げてもらうことがなかったので、そういう意味では大変有難いことである。
しかしこうした一連の問題提起(砂川問題)の総括とも言える最新作(五十嵐2021「石核とは何か -砂川モデルを問う-」)は取り上げられていない。
本論には関わらないという判断なのだろう。

その「砂川モデル」に関する記述において、看過できない誤植がある。

「さらに、それぞれの「個体別資料」は、石核、残滓、目的物をもとに類型化された。剥片剥離作業の最終的な廃棄物である石核の有無を中心に、作業の前半段階と後半段階とを示す類型が区分され(前半段階:石核・残滓・目的物=類型A、後半段階:残滓・目的物=類型B、その他に作業痕跡の乏しい類型(目的物のみ=類型C)が設定された。」(2-3.)

「砂川モデル」すなわち「砂川三類型」が分かっている人にはすぐさま誤りが分かるだろうが、分かっていない人には何のことやら訳が分からない文章だろう。
論の根幹に関わる部分である。

「今日、母岩資料と接合資料の分析によって各遺跡の石器製作工程を把握し、その差異やつながりから遺跡間の関係を抽出して意味づける分析は、居住形態研究の基礎的な方法の一つとなっている。武蔵野台地とその周辺に限っても、砂川遺跡と同時期、あるいは異なる時期を対象とした研究が展開されている(島田1994、野口1995・2004、国武1999、吉川2002・2003a、及川2006等)。」(3.)

「…基礎的な方法の一つとなっている」とか「…研究が展開されている」といったあたかも現在進行形のような文体で記されているが、それにしてはここ十数年(2007年以降)の研究成果が例示されていないのは、何故だろうか。
「母岩資料分析」が胚胎する問題性が、徐々に認識されてきたからではないだろうか。
ここで挙げられている7本の論稿にせよ、母岩識別・砂川類型区分を採用している研究がどれほどあるだろうか?
国武1999ぐらいではないのか?

「母岩分類自体は、分析者の基準や資料操作に加えて、遺跡個々の性格や内容などによっても左右されるため、分類の客観性を議論してもあまり意味はない。五十嵐彰や池谷信之が指摘しているとおり、私たちが議論すべきは、分析の基礎となる母岩資料について、どのような基準と方法で分類・認識したのか、資料操作のプロセスを明確にし、その再現性を担保することである(五十嵐1998・2002,池谷2009:295頁)。」(4.)

本稿の目的は「曖昧で、不確実」と「指摘されることがある」「母岩資料分析の課題」を「解決」すること、すなわち「明確で、確実」な「母岩資料分類」を示すこと、すなわち「母岩別分類の客観性を議論」することなのではないのか。
それを「あまり意味はない」と切り捨てられてしまったら、立つ瀬がないではないか。
「どのような基準と方法で分類・認識したのか、資料操作のプロセスを明確にし、その再現性を担保すること」というのは、「分類の客観性を議論」することではないのか。

そもそも、これでは池谷さんはともかく、あたかも私が「母岩資料は、旧石器研究における分析の基礎である」と主張しているかのようである。
私の主張は、それとは正反対の「母岩資料は、旧石器研究における分析の基礎とは成りえない」というものである。

ここに問題の根源がある。
すなわち何とか母岩資料分析という研究手法を維持しようと様々な方策を駆使する立場と母岩資料分析には根本的な問題があるので維持できないとする立場である。
母岩資料分析から砂川類型区分に至る研究手法の課題を何とか解決しようとする立場と、解決困難というより解決することは原理的に不可能とする立場である。

そこまでして固執する母岩資料分析を行う目的は、何だろうか。
それは「石器製作活動の痕跡から、それを含む遺跡・遺物集中部の形成過程を明らかにし、人間あるいはモノの移動について考察する」(2.)こと、すなわち「砂川類型区分」である。
「砂川類型区分」以外の「類型区分」を想定している人が居るかも知れないが、本論では砂川類型区分しか言及されていないので(2-3.)、とりあえず「砂川類型区分」をもって代表させる。何れにせよ大同小異である。
そして「母岩資料分析」という非接合資料を含んだ「砂川類型区分」に代表される類型区分研究は、「一母岩・多石核」という実態に対処できないというのが、私の最終的な結論である(前掲:五十嵐2021「石核とは何か」)。「石核の存在は、ある母岩資料の剥離作業の終了を意味しない」というテーゼの発見は、「砂川類型区分」と密接不可分な「母岩資料分析」を崩壊させるのに十分な破壊力を持っている。
2022年以降は「剥片剥離作業の最終的な廃棄物である石核」(2.)などとナイーブに記すことはできないのである。

「本稿の論点の一つは、これまで「母岩」とされてきたものをより包括的な「石質」としていったん捉え、一定の基準にもとづいて「母岩」と認識しうるかどうかを検討したうえで分析に進む枠組みを作ることである。この枠組みのもと、石質の中から厳密な意味で母岩と認識しうるものを抽出し、母岩資料と接合資料を組み合わせて本来的な意味での母岩資料分析を行い、先史狩猟採集民の行動形態を分析することを目指す。」(4.)

「厳密な意味」とは、どのような「厳密」なのだろうか。
「本来的な意味での母岩資料分析」とは、どのような「本来」なのだろうか。

「接合資料を用いた有効な分析方法の検討はもちろん必要だが(五十嵐2017)、得られている接合資料のみからなされる分析が本当にもっとも確実といえるのかどうか、議論の余地があると考える。」(5.)

「厳密な意味で母岩と認識しうるものを抽出」すれば、「本来的な意味での母岩資料分析」を行えば、「接合資料のみからなされる分析」よりもさらに「確実といえる」のだろうか。
ここでもキーワードは「確実」である。
「もっとも確実」な「分析」とは、何なのか?
「確実」な「分析」と「効果的な分析」の相互関係を熟考することが必要であろう。
そもそも石質分類とは「母岩分類が難しい」場合に「考えられた」「大まかなもの」であり、「大略を把握するのに用いられている」(4.)言わば「次善の策」として運用されてきた方法ではないのか。

誰も黒曜岩と頁岩を接合しようとは、しない。
黒い黒曜と赤い黒曜をも接合しようとは、しない。
似たような石質の資料を集めることが、接合作業の前提的な作業である。
当たり前である。

そのことに、それ以上の意味を求める旅路は、果てしなく遠いものとなるだろう。


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