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梅原1947「近年我が學者の行ふた支那の考古學調査に就いて」 [論文時評]

梅原 末治1947「近年我が學者の行ふた支那の考古學調査に就いて」『東亜考古學概論』星野書店:109-121.

「以上南京に於ける調査に較べて事変以後行はれ出した積極的で且つ規模の大きい考古學的工作は、蓋し山西省雲岡石窟寺の徹底的な調査と保存の事業であらう。雲岡の石窟が支那北魏時代佛教藝術の清華として洛陽龍門の窟佛寺と並称せられるものである事は餘りにも有名であり、その一斑も既に伊東(忠太)博士・故シャバンヌ教授等の著書に依つて廣く世に知られてゐる。處が十数年前からこの有名な窟佛の佛頭が心なき人々に依つてうちかゝれて北京の古美術市場に現はれ出し、為に中華民國要路の人々が同國の古美術を保存する見地からこれが防止に関心する様になつたが、種々の事情でなほ思はしい効果を挙げ得ない憾が多かつた。支那事変の発生後日本の軍当局は早く同じ見地から特に軍隊を派遣して、これが防止に萬全の策を講ずると共に、進んで學者側の窟佛全般に亙る徹底的な調査計画に援助を與へたので、この事業は着手された昭和十三年から年を重ねて段々と規模を大きくして、昭和十九年の夏に及び、全部の半ばに近い調査を遂行する事が出来たのは特筆大書すべきである。本調査は我が外務省對支文化事業や現地の蒙彊自治政府後援の下に、京都東方文化研究所の附帯事業として水野清一君の指揮監督の下に行はれつゝあるものである。」(111-112.)

実際に戦時期に朝鮮半島や中国大陸で発掘調査を行なった当事者はもとより、その後継者も含めて現在に至っても時々見かけるロジック、自らの行為を正当化する言辞である。
こうした弁明を打破するには、どうしたらいいだろうか。
保護・保存したと称する<遺跡>は、本当に地元の「心なき人々」によって危機にさらされ破壊されていたのか?
もしそうだとしても、そうした「心なき人々」をそうした行為に至らしめたのは、「日本の軍当局」が頼まれもしないのに、その地に行ったことによって引き起こされたのではないのか?

しかし当事者およびその後継者たちは、反論するだろう。
本来は現地の人たちと友好的な関係のもとで発掘調査をしたかったのだが、政治的な情勢がそれを許さなかった。不本意ながらも「軍当局」の力を借りてでも、破壊に瀕している<遺跡>を調査して保護・保存しなければならなかったのだ。
決して「私心」でもって行なった調査ではない。どこまでも学問に忠実に誠心誠意をもって行なったのだ、と。

人の心は測りがたい。
軍の力を借りて調査をしたように思われるが、それはあくまでもカムフラージュであり、本心は軍の力を利用したのだ、といくらでも言い逃れをすることができる。
保護とか保存といった言葉も、使いようである。
ある立場(現地の人びと)から見れば略奪であり侵略そのものであっても、侵略する側からすれば古代文化の「徹底的な調査と保存の事業」なのである。

それでは、彼らのこうしたロジックを打ち破ることはできないのだろうか?

ある。ひとつだけある。
それは、彼らが「私心」なくと称した調査の結果得られた調査成果、出土遺物などが、現在どのような状態にあるのか、という点である。
誠心誠意学問のために調査した成果を報告した後に、それら出土遺物を現地に返還したのか、それとも未だにそのまま自らの手元に置いたままなのか。

こうした構図は、アイヌ民族を一方的に「絶滅せんとする民族」と決めつけて、日本人の墓には決してしない「墓あばき」をしてきたことと同質である。
優生思想に裏打ちされた民族蔑視を背景としてなされた自らの行為を正当化する身勝手なパターナリズム(温情主義)である。

何のために、誰のためになされた調査なのか、そのことが「文化財返還問題」にまっすぐ繋がっている。

【集会のお知らせ】
遺骨の国家管理反対! アイヌ民族の遺骨の返還を求める東京全国集会
日時:2022年 10月 2日(日) 13時から17時
場所:日本教育会館(地下鉄神保町駅下車A1出口徒歩3分)
主催:ピリカ全国実行委員会
・集会基調報告
・学術会議・学術振興会を通じて返還問題を考える(五十嵐 彰)
・あいさつ(木村 二三夫、宇佐 照代)
・報告(札幌、小樽、関東、関西)
・連帯あいさつ(琉球遺骨返還訴訟を支援する会関東)
・自由発言と討論
・対政府・東大行動の提起
(資料代:1000円)

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