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春成2003「考古資料の偽造と誤断」 [論文時評]

春成 秀爾 2003「考古資料の偽造と誤断」『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集:219-242.

「2000年11月、日本考古学は「前・中期旧石器遺跡」捏造事件の発覚という、未曽有の学問的・精神的打撃をうけた。事件発覚前に一部の研究者から疑いがかけられていたにもかかわらず、奏功せず、新聞社が隠し撮った映像によって初めて捏造を認めなければならなかった。日本考古学には偽造を見抜く鑑識眼、つまり資料批判の精神とそれを議論する諸条件が十分に発達していなかったと認めるほかない。」(219.)

模造:実物に似せて造ること
偽造:ほんものに類似のものをつくること
変造:既存の物の形状・内容に変更を加えること
捏造:事実でない事を事実のようにこしらえて言うこと

これらは整然と区別できるわけではない。
当初は模造(レプリカ)として作られた<もの>が、ある事情で偽造となり、捏造となりうる。
変造だったことが、捏造に流用されていく。

こうした事例として線刻礫、土器片や骨片の線刻画、銅鐸や銅矛の偽造、土器や土偶の模造・偽造などが紹介されて「偽造と誤断を指摘し認定させる」とはどのようなことなのかが述べられる。

「「偽物」を指摘しなければ研究者として不誠実である。しかし、これまで真物として扱い、研究し、論文に使ってきた資料を偽物と公表することによって、喜ばれることは少ない。報告者や所蔵者から恨まれることが多いという不条理な事態が発生するのかこれまでの常であった。不愉快な結末になることを予想して、真偽の「鑑定」依頼を敬遠したり拒否したりする研究者も少なくない。
「前・中旧石器遺跡」の捏造事件について真に反省する、再発を防止しようというのであれば、考古学の全分野において観察・研究にもとづいてさまざまのまちがいを明らかにできる「鑑識眼」を養成すること、その結果を発表できる場を大切にし、反論できなければ、それを素直に受け入れるという勇気と覚悟が必要である。「偽物」や「誤断」を指摘することが憚られるような学界や社会の陋習をうち破ったところに、初めて捏造事件後の考古学の未来は開けてくることだけは間違いない。」(239.)

ここでは、「偽物」という<もの>レベルにまつわる事柄が述べられているが、同じようなことが、そしてさらに広範囲にわたるのが、<もの>と<場>の考古学的な解釈、読み取り方である。
本論の発表から20年近くが経過して今の私たちが考えなければならないのは、本物か偽物かといった<もの>レベルでの誤断から、さらにもう一歩踏み込んだ<もの>を巡る考古学的な解釈に関する誤断である。
そのことが、たとえ「不条理な事態」や「不愉快な結末」を招いたとしても、踏み込まなければならない。

例えば、同じ「母岩」から剥離されたとされる非接合資料に関する恣意性について、ある人は「確実」であるという。あるいは「不確実」であったとしても有効性はあるという。
あるいは、敷石遺構から出土した稀有な大形石棒の並置状態について、ある人は「廃屋時」における再利用であるという。あるいは「倉庫」であったという。
あるいは、<遺跡>というのはそれぞれが区切られて計数可能であり、ある人は考古学における基本的な単位であるという。
あるいは、戦時期に中国大陸から収奪された考古資料について、ある人は元の場所に返すよりも今ある所蔵品を使って最善の研究をすることが日本人考古学者の責務であるという。

いずれも「日本考古学には資料批判の精神とそれを議論する諸条件が十分に発達していない」と考えざるを得ない。
こうした解釈の誤り「を指摘することが憚られるような学界や社会の陋習をうち破ったところに、初めて捏造事件後の考古学の未来は開けてくることだけは間違いない。」

果たして捏造事件後の「日本考古学」の未来は開けているのだろうか。

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