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殷1996『中日戦争賠償問題』 [全方位書評]

殷 燕軍(Yin Yan-Jun)1996『中日戦争賠償問題』御茶の水書房

「この研究は、筆者自身にとっても、徐々に中国国民政府の対日賠償政策に対する一つ一つの「謎」を解き、戦後中日関係の一側面への理解を深めていく過程でもあった。
本稿で披露しているように、中国国民政府は戦時から戦後にかけて一貫して厳しい対日賠償請求を求め、独自の対日政策を作り、連合国の対日賠償政策にも影響を与えようとしている。一方、この対日政策の展開は、実に戦後東アジアにおける複雑な情勢に左右され、その自律性を保ちながら、曲折な道を辿ってきた。」(ii.)

「日本はその文武人員及び私人が他国から略奪した全ての金銀貨幣、有価証券、書籍、公文及びその他の歴史的文化財を連合国に返還すべきこと。」(カイロ会談における中国ーアメリカ首脳会談に向けて用意された中国軍事委員会参事室の議案文:26.)

1943年11月、フランクリン・ルーズベルト(アメリカ)、ウィンストン・チャーチル(イギリス)、蒋 介石(中華民国)の3人がエジプト・カイロで会談し、連合国の対日方針などを定めたカイロ宣言を発表した。
その際に中華民国の戦後対日構想として日本に対する「文化財返還」が明記されていた。

日本国政府は、賠償実務に関わる部局として外務省特殊財産局(1948~1949)および外局として賠償庁(1948~1952)を設置した。
1949年1月18日、中華民国駐日代表団は「日本軍によって持ち去られた中国の文化財と書籍の所在調査と返還についての依頼」をGHQに提出した。こうした中国側の依頼を受けてGHQは「中国より掠奪した文化財及書籍の全国調査方命令の件」を発した。こうした指令を受けて中華民国政府教育部の『中国戦時文物損失数量及估価目録』を外務省特殊財産局が翻訳したのが『中華民国よりの掠奪文化財総目録』である(鞆谷 純一2010「『中華民国よりの掠奪文化財総目録』に対する日本政府の主張」『図書館界』第62巻 第4号:278-293.)

ちなみに『掠奪文化財総目録』に対応するために日本政府によって設置された「中国文化財委員会」を構成する6名の委員のうちの一人は、東京大学文学部考古学研究室の駒井 和愛氏であった(同上:292.)。

「対日講和の早期決着のため、中国政府は賠償要求を放棄する用意がある。但し、他国も同様に放棄することを条件とする。もし何らかの国が依然として対日賠償を堅持するなら、中国政府は優先的な考慮を求めないが、当該国と同様な考慮をされたい。このように賠償問題での合理的な立場に鑑み、略奪財産の返還、特に中華民族に歴史的及び文化的価値のある芸術品と文化財の返還、そしてもと”満州国”等の傀儡政権及び台湾銀行に属し、現に日本にある財産の中国移譲等のことで、中国が米国に友誼的な支援をされたい。」(1950年10月ダレス米国対日講和担当大使が示した「対日講和七原則」に対する顧 維鈞台湾政権駐米大使の回答:228.)

1949年10月の中華人民共和国建国宣言、12月の国民政府台湾撤退により国際的な地位を低下させていた国民政府は対日政策として条件付きで戦時賠償請求を放棄せざるを得なくなっていた。
アメリカの戦後アジア構想として連合国の一員としてのパートナーと目していた中華民国の地位低下によって、敵国であった日本に対する賠償構想は大きく転換することになる。もし中国の抗争が自由主義陣営の枠組み内であれば、すなわちアメリカの南北戦争のように保革(左右)の対立であれば、アメリカは依然として中国をアジアにおけるパートナーとし、日本に対しては莫大な賠償を求めたことだろう。しかし歴史はアメリカの思惑とは異なり、大陸における共産主義政権の樹立となった。このことによってアメリカの対日政策も占領前期とは真逆の「逆コース」と称される政策が推し進められることになる。

「日本の侵略により中国人民が多大な苦痛を受け、多大な犠牲を蒙った。これは如何なる被侵略国人民よりも甚だしいものである。日本の在華資産は中国人民の合法的賠償請求を満足させないものであり、3年前に接収した中間賠償前渡取立ても象徴的なものに過ぎなかった。日本にその侵略による損害を充分に賠償させることは当然合理・合法原則にかなうものである。但し対日講和を早期に締結するため、中国政府は別に賠償請求を提出しないことに賛意を表する。ただし他の連合国も同じような条件に従うことを前提とする。いかなる連合国がその賠償を堅持する場合、中国政府は優先的権利を要求しないが、同じ考慮を享受すべきである。また中国が対日賠償問題についてこのような合理的立場をとることに鑑み、米国政府にその略奪物の送還、中国の歴史的文化的財産の返還、並びに元”満州国”傀儡組織及び台湾銀行に属し、現在日本にある資産を中国に移譲させる事等に友好的な支持を与えてくれるよう望んでいる。」(1951年日本賠償返還及び工業水準問題覚書:245.)

対日講和に参加することが危ぶまれていた国民党政権にとって、アメリカの意向に反する要求を提出することは増々困難となっていた。そうした時ですら「歴史的文化的財産の返還」は重要なファクターとして明記されていた。そして実際に国民党政権は対日講和(サンフランシスコ条約)に参加することができず、日本と個別に講和条約(日本国と中華民国との間の平和条約:1952年8月5日発効)を締結せざるを得なかった。

中国代表権問題を抱えて日本と長期間の不正常な関係が継続していた中共北京政府にとっても台湾国民党政府の賠償放棄は大きなインパクトを与えていた(王 広涛2015「中国の対日戦争責任区別論と賠償政策」『法政論集』第261号:265-300.)。

日清戦争時に受け取った賠償金などを参考にすれば国家予算の数倍とも想定された莫大な戦争賠償の支払いを、日本は交渉相手国の歴史的な偶然とも言うべき状況によって回避することができた。そのことは短期的には日本にとってプラスをもたらしたが、戦争責任の清算という長期的な視点からは文化財返還を始めとする様々な負の遺産が解決されることなく持ち越されて、今や回避できない大きな重荷となっている。

交渉相手の弱みにつけこんでなされた先人の残したツケ(未清算事象)は、後人である私たちが贖わなければならない。




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