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遺跡情報交換標準の研究 [遺跡問題]

独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 企画調整部 文化財情報研究室(森本 晋 編集)2019『遺跡情報交換標準の研究 第5版』

「遺跡にはひとつ、ふたつと数えやすいものと、そうでないものとがある。数えると言う行為そのものが正しい行為かどうかはここではひとまず置いておくとしても、比較的計数しやすい遺跡として古墳や窯がある一方、集落などでは計数が困難な場合がある。古墳は1基1基を独立した存在として扱うことが多いのに、方形周溝墓はまとめてひとつの遺跡とすることが多い。盛土を有する墓という形態は類似しているが、現地表面で認識しやすいかどうかや研究史から扱いに差があるのであろう。
旧石器時代、縄文時代の墓は単独で検出されない限り周辺の遺構と合わせて1件の遺跡として扱う。
弥生時代の墓は墳丘の有無だけではなく、立地などから独立性が高いものを1件として取り扱い、その他のものは周辺の遺構と合わせて1件の遺跡とする。
古墳の計数は通常、墳丘をひとつの単位としており、主体部ごとに別の遺跡とすることはない。問題が生じるのは、埋葬が墳丘外に行われる場合である。周溝内であれば、周溝のその部分がどの古墳に属するのかを決定して、独立して扱わない。単独で墓が形成されている場合は、対象となる墓や周囲の古墳などをカバーする古墳群ないし遺跡を定義し、その要素として扱う。古墳群を定義するとそれは後述の「集合」の扱いであるから、遺跡を定義したときとは構造が異なる。古墳群内の要素たる個別の遺跡として、古墳以外の要素を暗黙で意味すると解釈するのも一案である。横穴は個々の横穴を1件の遺跡として扱う。
奈良時代以降の墓については、独立して形成されているものは1件の遺跡とし、集合しているものは全体を1件の遺跡として扱う。やぐらについても横穴と同様にできるだけひとつひとつの単位を1件の遺跡として扱うべきであろう。」(6-7.)

役所が専門家向けに書いた文章なので、一般の方には何やら訳が分からない不思議な文章となっている。
<遺跡>には数えやすい<遺跡>と数えにくい<遺跡>があるようである。
数えやすい<遺跡>としてここで挙げられているのは「墓」であるが、それも色々と問題があるようである。
旧石器時代から弥生時代までは基本として「墓」だけを<遺跡>とはせずに集落に含めるが、弥生時代の一部と古墳時代は「墓」だけで<遺跡>として、奈良時代以降は再び単独の墓だけでは<遺跡>とはせずに集まっているものを「墓地遺跡」とする、ということらしい。

その<もの>だけからは判断できず、その<もの>と周りの<もの>との関係性を「総合的」に判断するということなのだろう。
その<もの>そのものの大きさ、位置する広さも、判断する際に大きく関わっているようである。
先史時代の墓は小さく集落の一部であるが、古墳時代の墓のあるものはでかくて先史時代の集落規模を上回るものも存在するし、古代以降の「墓地」は先史時代の集落規模と同じくらいである。

亡くなった人の遺骸を葬る「墓」という遺構は、その時代によって様々な形態・規模・存在状況を示す。
私たちの都合に合わせて、ある時は<遺跡>の一部として、ある時は単独の<遺跡>として、ある時は…
相手の様相が変容するのに合わせて、こちらの区分基準も自在に変容する。
というよりも変わらないのは、「ある一定の大きさの地理的な単位」である。

「ここで言う複合遺跡とは、同一の平面位置に時代や種別を異にする遺跡が重複している場合である。
基本的に遺跡の種別や時代が大きく異なる場合は、個々の遺跡を独立した遺跡として扱い、近接する場合は同一の遺跡として扱う。
集落遺跡が重複している場合は同一の遺跡として扱われていることが多い。古墳時代前期の集落と奈良時代の集落が同じ場所に重なっている時には、古墳時代後期の遺構が欠落していても同一遺跡扱いとなる。
旧石器時代と室町時代であっても同一遺跡とされていることがあるが、こういった存続期間に極端な差がある例では別遺跡とする方が良いのではないか。(中略)
種別の異なる遺跡の複合は、別遺跡とすることが望まれるが実際の扱いはさまざまである。これは遺跡種別の概念そのものがあいまいであることにも原因がある。」(7.)

私が<遺跡>問題に踏み入れるきっかけとなったのは、古代の国分寺跡の方形区画に区切られた<遺跡>における旧石器時代の<遺跡>を調査した経験であった。当然のことながら、旧石器時代の<遺跡>範囲は、古代の寺院区画に規制されない。しかし<遺跡>名称から何から全ては古代寺院優先で貫かれており、当時は「存続期間に極端な差がある」にも関わらず、「別遺跡とする」ことは全くの論外とされていた。

「地理的に広い場所を占めている遺跡、広域遺跡ではほかの遺跡とは違った問題が生じる。
都城について、平城京をとりあげてみる。平城京の範囲内には、平城宮や寺院が含まれている。平城宮については、平城京とは地理的に重複しないと考えることもできるが、寺院の範囲はどのように扱えばよいであろうか。平城京では存続期間を限定して考えることができるので、710年頃から784年ないし平安前期までをひとつの区切りとできる。この期間内であれば、まず平城京の構成要素として考え、独立性の高い寺院にかんしてはそれぞれ別遺跡としても認識すべきであろう。地理的範囲と時代範囲が限定的であるから、地理的に重複する旧石器時代の遺跡や中世の砦などは別遺跡として取り扱う。」(7.)

都心の再開発計画に伴って幅員40m・事業区域1.4kmの調査に携わったことがあった。当初は「港区No.149遺跡」として出土遺物の注記から何から様々な取り扱いがなされて考古誌の書名としてもそのように想定して進めていたにも関わらず、土壇場で「愛宕下遺跡」という名称に差し替えられてしまった。
ビルの建て替え工事に伴う隣接する「港区No.19遺跡」と新たな「愛宕下遺跡」の相互関係は、どうなるのだろうか? 開発行為に起因する調査エリアを示す包蔵地の相互関係(港区No.19と港区No.149)ならまだ理解可能である。しかし「愛宕下遺跡」なるものの範囲は、いったいどのようなものなのか? 提出した様々な疑問は何一つ解決していない。

本書では一貫して「遺跡」という用語が使用されている。「遺跡の定義」という項目で『日本考古学事典』の田中2002が紹介されて「遺跡の定義は社会情勢や学問の進歩によって変化してきている。「遺跡」という言葉を聞いた時の印象は、考古学者にとっても、一般の人にとっても徐々に変化しているのである」(6.)とされるのみである。

まず「遺跡」と「包蔵地」という用語を使い分けるべきではないか、というのが長年来の主張である。
情報を標準化して取得・交換・保管しなければならないとしたら、まず区切られなければならない、そして数えられなければならない。区切れない<遺跡>ではなく、区切られなければならない「包蔵地」を対象としなければいつまでたっても混乱は収拾できないのではないか。

「遺跡とは世界を認知するひとつの観点である。」(1.)

その通り。
<遺跡>を実体視している限り、問題の解決は程遠い。
本来こうした問題は、デジタル・トランスフォーメーション(DX)の一環としてなされるような性格の問題ではなく、考古学という学問の根幹に関わる問題としてより広い場(例えば「日本遺跡学会」など)で議論されるべきではないか。

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