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谷口2021『土偶と石棒』 [全方位書評]

谷口 康浩 2021『土偶と石棒 -儀礼と社会ドメスティケーション-』雄山閣

ここでは、書名「土偶と石棒」という両者の一方のみ、それも緑川東出土の大形石棒を巡る記述についてのみ論じる。

「東京都緑川東遺跡では、4本の完形の石棒が長径約3.3m、短径約3.1mのほぼ円形の敷石遺構の床面レベルに埋設された状態で発見された(図12、株式会社ダイサン編2014)。石棒は103~112cmの安山岩製で、一段笠形が1本、二段笠形が3本ある。左右に2本ずつ、頭部を揃えた状態で埋設されている石棒の下層と上層から出土した北白川C式土器・中津式土器から、中期末ないし後期初頭と推定されている。発掘調査報告書によると、先に作られた敷石遺構の中央部分の石材を取り出した後に、4本の石棒が並べて埋設されたと解釈されている。しかし、敷石遺構を再利用する形で石棒が埋設されたという出土状況の解釈には疑問も提起されている。五十嵐彰は、敷石遺構を構築する際に石棒を用材の一部として取り扱ったという解釈もあり得るとの見方を示すとともに、「樹立される石棒」という研究者の先入観によって出土状況の解釈が歪められていることを指摘している(五十嵐2016・2019)。
緑川東遺跡の事例については第7章であらためて取り上げるが、筆者はこれらの石棒の頭部形態や石材が一様でない点に注目しており、製作・入手の時期が異なる製品が、中期末ないしは後期初頭にここにまとめて遺棄されたものと考えている。それはちょうど至近距離に位置する向郷遺跡で、中期中葉から継続していた環状集落と集団墓の造営が終息する時期にあたり、向郷集団が保有していた石棒がまとめて遺棄された可能性がある。」(60-61.)

私は「用材」といった用語は使用しておらず、一貫して「部材」である。
あえて「用材」を使用するところに筆者の意図があるのだろう。
「石棒の頭部形態や石材が一様でない点」は、石棒の埋設が一般的な住居を「再利用する形」でなされたのか、それとも遺構を「構築する際に」なされたのかという議論には、直接関わらない。

「前述した東京都緑川東遺跡出土の4本の石棒(図12)も、遺棄の同時性は疑いないが、入手時期は異なっていた可能性が高い。二段笠形の3本(R2・L1・L2)に対して一段笠形の1本(R1)は中期中葉から後半に発達した古い頭部型式を取るものであり、石材・色調も二段笠形の3本とは異なっている。4本の石棒の中でもっとも古い時期に入手され伝世されてきた石棒が、後に入手された他の3本とともに中期末ないし後期初頭にまとめて遺棄されたと考えるのがもっとも蓋然的な見方であろう。
伝世問題を実証的に検討するには、石棒に付着した炭化物の年代測定が一つの有効な方法となろう。石棒の製作年代を特定することはできないが、燃焼がおこなわれた年代を調べ、遺棄・埋没時の共伴遺物の年代と照合することで、伝世の有無を検討することは可能である。」(71-72.)

4本の石棒を緑川東に埋設した人びと(集団)が、4本の石棒をそれぞれ製作・使用していた他の集団から入手した時期が同時であったか、それとも異なっていたかについては、確定できないだろう。
石棒の頭部型式から読み取れることは、石棒の製作時期が異なっていた可能性であり、それがそのままイコールで緑川東に埋設した人びと(集団)の入手時期に結び付く根拠は何だろうか?
「石棒に付着した炭化物の年代測定」をしても、それは廃棄時間(埋設時期)の根拠にはなり得ても、入手した時期やどれほどの期間にわたって所有していたのかといった「伝世問題」には結びつかない。
ある集団が所有している<もの>を他の集団が「入手」する時期(入手時間)は、どんな方法をもってしても推測の域を出ないのではないか。
考古学的に確定できる時間(考古時間)は、<もの>が作られた時間(製作時間)と<もの>が使われなくなり捨てられた時間(廃棄時間)およびその<もの>が部材であれば遺構という<場>に組み込まれた時間(設置時間)の3つである。

「2012年、東京都国立市緑川東遺跡で、4本の完形の石棒が中期末ないし後期初頭の敷石遺構の床面レベルに向きを揃えて埋設された特異な事例が発見された(図73下、株式会社ダイサン編2014)。中期末・後期初頭に石棒出土例が多いこと、とりわけ柄鏡形住居からの出土例が多いことはこれまでにも知られていたが(山本1996)、完形石棒が4本も一まとめに遺棄されたこのような例は過去になく、石棒に対する関心が一気に高まる契機となった。また、その出土状況や石棒埋設に至る行為の流れと遺跡形成過程をめぐって議論が続いている(五十嵐2016・2019)。現象上は長径3mほどの円形の敷石遺構の中央付近の石のない部分に、4本の石棒が向きを揃えて左右2本ずつに分かれて埋設された状態で、その下部には長径約150cm、短径約45cm、深さ10cm以下の長楕円形の土坑(床下土坑)が存在した。筆者には敷石遺構と石棒の状態が、第3章で論じた石皿と石棒の一対の関係と相似の構図にみえる。件の敷石遺構が通常の柄鏡形敷石住居とは異なり全体が緩く窪んだ形態に作られていること、石棒が埋設された側の敷石がなく敷石部分が石棒の三方を包み込む形となっていることは、円形の敷石遺構の再利用にしては不自然で、石皿を模した意図的な造作にみえるのである。真相は明らかでないが、4本の完形石棒が中期末から後期初頭のある時点でここに遺棄されたことだけは紛れもない事実である。」(215.)

敷石住居再利用説を否定した特殊遺構説の一つのバリアント、それも敷石遺構(SV1)自体を「石皿を模した意図的な造作」とみなす「石皿模倣説」の提唱である。
7年前には「…東京都緑川東遺跡の事例は、深い掘り込みをもつ敷石遺構の中央部の敷石を抜き取り、大形石棒4本を向きを揃えて並列して埋設したものである」(谷口 康浩2015「大形石棒の残され方 -放棄時の状況と行為のパターン-」『考古学ジャーナル』第678号:7.)と一般住居再利用説に立っていたのだから、今回の「円形の敷石遺構の中央付近の石のない部分に…」という記述と共に、筆者がSV1特殊遺構説に転向しつつあることを示している。

「緑川東遺跡に遺棄された4本の石棒は、おそらく向郷遺跡を拠点としてこの地に展開した集団と密接に関わるもので、その集団が保有・継承してきた石棒が、向郷遺跡の終焉に際して一括して遺棄された可能性が高い。出土した石棒を仔細に観察すると、4本の石棒は形態と石材が一様ではなく、入手された時期と製作地が異なっていた可能性が考えられるからである。一段笠形の頭部をもつ個体が形態的に古く、やや赤みを帯びた石質も他の3本と異なっている。二段笠形の3本も、一段笠形と並べて左側に配置された1本は、右側2本と石質が異なる上に、基部の使用痕の特徴が異なっている。入手時期と製作地が個々に異なっていた可能性があり、石棒を保有した集団も単一ではなかったと考えられる。
石棒の歴史は、向郷遺跡のような中期環状集落の歴史的動向と密接不離な関連を有していた。石棒の荷担者であり儀礼祭祀の主体者となったのは、中期環状集落の背後にその存在が想定された分節的な出自集団であり、石棒とは集団の組織原理である祖先・系譜観念を象徴するものであった。筆者はそう解釈したい。」(216-217.)

4本の大形石棒の設置時間に関する一般住居廃棄時設置説(再利用説)から当初特殊遺構製作時設置説への移行については、前者が依拠している廃屋儀礼説に対する筆者の違和感も作用しているようだ。

「山本暉久は中期末から後期初頭の柄鏡形住居における石棒出土の増加について、石棒の浄化を伴う住居廃絶儀礼によるものと解釈している(山本2012)。環状集落の解体による社会構造の変動が原因で石棒継承が断絶したとみる筆者とは、文化的コンテクストの理解が異なっている。」(220.)

緑川東問題の根底に「樹立される石棒」すなわち「石棒神話」という男らしさ(マスキュリニティ)の呪縛を指摘したが(五十嵐2019:7.)、本書ではこうした問題についてはほとんど述べられていない。
今後の論及に期待したい。

「ところで、実在する遺跡や出土遺物は、過去の事実を客観的に伝える物的証拠のようにみえるが、実はそうとはいえない。考古学者が過去の何かを解釈するとき、考古学者自身の認知、思考、価値観、論理が入り込み、歪みや偏向が生じてしまう。思考の枠組みや概念は社会・文化の中で形成されたものであり、何人もそこから自由ではいられないのである。本論では、土偶と石棒の形態に女性・男性の性徴を読み取り、それを前提に意味を論じたが、私自身のジェンダー観が解釈を歪めた惧れは免れない。それでもあえて意味を論じるのは、上に述べたような考えからである。」(303.)

ここで述べられている事柄が、まさに第2考古学的な視点である。


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