SSブログ

安斎編2021『考古学者の思考法』 [全方位書評]

安斎 正人 編 2021『考古学者の思考法』同成社

静かな波紋が広がっている(はずである)。

・構造変動の政治経済学:3-65.(田村 隆)
・縄紋式の思想圏:67-127.(田村 隆)
・『無文字社会の考古学』から『縄紋時代史』へ -パラダイム転換の道程-:129-158.(安斎 正人)
・瀬戸内地域周辺の押型文土器と無文土器について -土器組成と遺跡機能-:159-186.(吉野 真如)
・堀之内1式土器の個体別系統分析:187-237.(加納 実)
・考古学評論:239-260.(安斎 正人)

何よりも、田村論稿の圧倒的なボリューム。
第1論文で63ページ、第2論文で61ページ、一人で総260ページのほぼ半分を占めている。

まずは第1論文「構造変動の政治経済学」である。
参考文献として挙げられている78本の内、和文38本・英文40本である。
十分なる論評というものが、記された本文を読み込むことはもとより、挙げられている論文をも踏まえてなされるべきであるという原則からすれば、それが達成できるのは何時のことになるやら目も眩むほどだが、とりあえず表面的であっても感想を述べるべきであろう。
挙げられている日本文38本もその内の33本は翻訳であり、純粋な日本文は5本のみという徹底ぶりである。

頭2字下げでの引用文は、37箇所、内訳はチャイルド(8)・マルクス(2)・エンゲルス(3)・マルクス=エンゲルス(5)・モーガン(3)・ウルフ(2)・フリードマン(2)・ウォーラーステイン(2)・モース(2)・クラーク・レヴィストロース・ブルデュー・アルチュセール・キーシング・マリノフスキー・ギルズ・バタイユ(各1)といったように、古今東西ありとあらゆる碩学の業績が参照されている。これは純粋引用としての言及者であり、本文中での言及者はさらにこの倍に達するだろう。

「日本考古学」の「考古学者の思考法」において、これらの業績がどれほど参照されてきただろうか?

「最後に、上部構造と下部構造との関係、すなわち生産様式理解にまつわる実体論的錯視について大方の注意を喚起しておきたい(16)。これまでの議論は社会構成体における生産諸関係とは何か、という問題系に集中してきた。ところで、考古学者がまず直面するのは土器や石器であり、まれに骨角器や金属器であり、それら文物の生態系内部での分布である。まず、これらの文物は生態系内における労働手段としての機能性が同定され、時にその社会的機能、いいかえれば所有関係内部での生産諸関係に議論が及ぶのが普通だろう。同じ文物は初等的観察において生産諸力として考察され、遂次生産諸関係として把握されたりするようにも見えるが、そうした見方こそが実体論的な錯視そのものである。そうではない。文物 artifacts とそれに関わるすべての agents、そして生態系・社会という重層的な contexts との三項関係(マルクスはこれを労働過程と総括する)において、この関係を<生態系との関係>として見るのが生産諸力であり、<所有関係としての社会>という視点から考察するのが生産諸関係である。そして、ここでの三項関係・労働過程の様式性が生産様式と定義されたのである。」(42.)

この僅かな文章を理解するだけでも、「生産様式」「生産関係」「生産力」「労働手段」「労働過程」といった基本用語を押さえておかなければならない。
こうした基礎知識は、欧米系の大学では学部の2・3年次の教養課程で徹底的に叩き込まれる(はずである)。
私は文化人類と考古が一体化した学統で学的形成を果たしたので、モース・レヴィストロース・サーヴィスぐらいまでは基本的な知識は得ていたが、それ以降は体系的に学ぶ機会もなかった。学生時代から土器やら石器しか見てなかった人たちは、最初から学ぶのも大変だろう。
この引用文で重要なのは、註(16)である。

「(16) 実体論的な錯視の代表として、草深き学的辺境九州大学の岩永省三の論文(2012)をあげておく。ここで展開されている生産様式概念は、本文中で触れたマルクスによる概念規定を誤読・逸脱し、関係概念である生産様式が実体化されている。岩永教授によれば生産諸力は構造ではないそうである。経済活動の基本が労働過程であることはいうまでもない。マルクスはこの労働過程を自然との代謝過程として、また一方で自然の領有・所有過程として考察した。前者を生産諸力、後者を生産諸関係というのである。」(60.)

しかし何故か肝心の「岩永2012」が、「参考文献」欄に見当たらない。参考にするまでもないということなのだろうか? これでは、読者は確かめようがないではないか。
こうしたことが、散見される。

第2論文は、「研究に値する考古家はわずかに三人しかいない」(67.)として、山内・佐藤・渡辺が論及される。
例えば、佐藤 達夫では「引用参考文献」として1983・1978・1978・1970・1974・1974と6本の論文が挙げられている。なぜ年代順に並んでいないのだろうか?
それは、カッコ内で記された初出論文順に並べたために、名前表記に続いて記された再録論文集の刊行年順にはなっていないのである。

例えば「佐藤は無土器時代の石器群について、「ナイフ形石器文化には横打技法と石刃技法の二つの基本的な剥片技法がある」(佐藤1970:163頁)と考えていた。」(78.)とされるが、初出論文である佐藤1970『信濃』の該当頁は1~6ないしは271~276であり、「163頁」は再録論文集『日本の先史文化』1978の該当頁である。しかし他の論文で記される再録論文集『日本の先史文化』は、なぜか文献リストの佐藤1970では記されていない。

こうした混乱は、文献リストの表記方法が、一般的な初出論文優先ではなく、再録論文集優先という異例ともいえる方法を採用していることに起因している。

「六九年論文ではモンテリウスとチャイルドの影響が色濃く残り、七一年論文にはウィリーらの系統分岐モデルが採用され、七四年論文でプロセスとしての型式という概念への転換が明確に表明されている。」(103.)
本文では初出論文表記なのに、文献リストでは再録論文集優先というチグハグ感。

「一九九〇年代の佐藤の型式観はすでにプロセスとしての型式という領域に移行していた。」(103.)
「…佐藤はその校正を果たせず一九七七年に逝去した。」(88.)
理解が困難である。

78頁には「佐藤前掲論文:163頁」として佐藤1970から2字下げ引用文が6行にわたってなされているが、3カ所の脱字のほか、「あるいは茂呂をはじめ、いくつかのナイフ形石器のみの遺跡も、同様の取扱いを受けるべきなのであろうか」という一文が丸々脱落している。

こうしたことは、少し調べた他の引用文においても頻発しており、文章全体の信頼性に少なからぬ影響を与えている。

79-80頁および89頁の2字下げ引用文の「Childe 1935」は、「引用参考文献」に出てこない。
109-110頁および111頁の2字下げ引用文の「ラドクリフ=ブラウン前掲書」も、数ページ遡って『未開社会における構造と機能』に辿り着かなければならない。それでも「邦訳」の訳者も出版社も出版年も不明である。
112-113頁の2字下げ引用文の「渡辺1988「北太平洋沿岸文化圏」『国立民族学博物館研究報告』第13巻 第2号」は本文のみに記され、「引用参考文献」に出てこない。これでいいのだろうか?

「佐藤は山内型式学の継承者などではない」(86.)、「要するに、山内の型式概念など空理空論だというのである」(88.)、「今や佐藤を山内型式学の後継者とする神話は瓦解した」(103.)といった指摘は、佐藤を山内の継承者と思っていたので、新たな見方を知ることができた。
また佐藤の系統分岐という考え方に対するアメリカ・プロセス考古学の影響については、確かにそうした可能性は大いに有り得るだろうと思う。佐藤1974に付された文献欄にディーツやヒル、ロングエーカーの諸論文が記されていたら、私たちの佐藤 達夫観も今とは異なっていただろう。

安斎「考古学評論」では、『文化財返還問題を考える』に言及いただいて有難いことである(252-254.)。
ただし、私は「指弾」(253.)しているつもりは全くなく、この場合は「指摘」ぐらいが適切ではないかと思う。

「…当時私は日本考古学における中位の理論、高位の理論(「理論考古学」)の構築を志向していて、日本考古学における「低位の理論」、特にその方法論に潜む先入観、主観性、非科学性などを看過してきた。日本考古学(界・者)がいまなお有するこの種の「あいまいさ」を突くのが五十嵐の「第2考古学」である。」(254.)

とても私は「高位の理論」を志向することはかなわないので、ひたすら「低位の理論」を志向している訳である。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。