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五十嵐2021c「「返す」ということ」 [拙文自評]

五十嵐2021c「「返す」ということ」『韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議年報』第10号:2-4.

2010年6月12日の公開シンポジウム「韓国・朝鮮文化財返還問題を考える」に参加したのが、最初であった。
それから11年。晋州や釜山そして平壌・開城と様々な場所で様々な人たちと出会った。

持ってきた<もの>を「返す」とは、いったいどういうことなのだろうか?
どのような意味があるのだろうか?
そのようなことを考えた。

1.「返さなくてはならないもの」と「返さなくてもいいもの」
「返さなくてはならないもの」は、所有権が自らにないもの、例えば図書館から借りてきた本である。
「返さなくてもいいもの」は、所有権が自らにあるもの、例えば書店で買った本である。
所有権が自らにないものは、本来の所有者から「借りている」もの、「借用品」である。
本来の所有者の許諾を得ずに、不当に持ち去ってきたものは「所有品」ではなく「借用品」である。
実は所有権がない、本来の所有者から「借りている」状態であるにも関わらず、あたかも自分のものであるかのように勘違いしている事柄が多いのではないか?

2.「発掘品」は誰のものなのか?
発掘調査で出土した「発掘品」は、文化財保護法によって発掘地の教育委員会などが保管している。
発掘調査によって出土した資料の所有権は、実際に調査した人や組織が保有するのではなく、出土した場所の公共的な組織が保有する、ということになっている。これが、本来あるべき在り方である。
正当な手続きを経て地元の人たちの了解を得てなされる調査ですらそうであるならば、戦時期の占領地や植民地において軍事力や政治力を背景に本来の所有者である地元の人たちの了解も得ずになされた「発掘品」は、なおさら出土地に「返さなくてはならない」。

3.「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)
1940年:紀元二千六百年記念事業として、宮崎県に高さ36.4mの巨大な石塔が建立された。正面には「八紘一宇」の文字が掲げられ、基壇部分の切り石には「大東亜」の地理的範囲を誇示するために中国198個・朝鮮123個・台湾40個など各地からの献石によって築かれた。
1946年:「八紘一宇」は、国家神道・軍国主義・過激なる国家主義と切り離し得ざるものとして連合国最高司令官指令第448号により使用が禁止されたため、「八紘一宇」の文字板と武人像が撤去された。
1964年:宮崎の地が東京オリンピック聖火リレー第2コースの起点となったことに合わせて「オリンピック競技は、世界の各民族が友情を温め、八紘一宇(世界は一つ)の実現に資する聖なる運動である」という陳情書によって「八紘一宇」の文字と武人像が復元された。

4.私たちの罪の意識
「みんなやっていた」とか「仕方なかった」といった言い訳をして何とか正当化しようと誤魔化すのではなく、自らが行なった罪を正面から認めることで、自分の持ち物と思っていた「返さなくていいもの」が、実は本来の所有者から借りていた「返さなくてはならないもの」であったことに気が付く。
「返す」とは、私たちのこころの問題である。

5.おわりに
「親たちあるいはまたその親たちの残した負の遺産を私たちはこれ以上目を背けて先送りすることなく、「引き受ける」。そのことによって私たちの硬直した精神が少し緩み、今まで表面的な付き合いしかできなかったアジア地域の隣人たちと本当の意味で心の交流ができるようになる。(中略)
私たちが変わり、隣人も変わる。私たちと隣人の関係性が変わっていく。
そんな未来を見通したい。」(4.)

【研究集会】予告
今こそ問う 朝鮮文化財の返還問題 -『南永昌遺稿集 奪われた朝鮮文化財、なぜ日本に』出版記念講演会-

1.朝鮮社会科学院・考古学研究所との古代遺跡共同発掘事業に参加して -最近の高句麗古墳発掘の成果をふまえて- (河 創国)
2.文化財返還問題について (五十嵐 彰)

日時:2021年 6月 26日(土) 14:00~16:30
場所:朝鮮大学校 記念館 4階講堂(東京都小平市小川町1-700)会場参加は先着25名+オンライン参加
主催:朝鮮大学校 朝鮮問題研究センター
申し込み:参加希望者は、6月23日(水)までに件名を「講演会参加」として、住所・氏名・所属・電話番号を記載して申し込んでください。参加費無料 朝鮮大学校 朝鮮問題研究センター:kucks1105@gmail.com

タグ:文化財返還
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橋本

本来あるべき在り方、これでいいという手続きがあるものでしょうか。そこに、こころの問題はないのでしょうか。現在行われている、手続きを経て強制収用された場所の発掘調査はどうなんでしょうか。
by 橋本 (2021-06-11 12:50) 

五十嵐彰

あるべきの「べき」にも幾つかのレベルがあるかと思います。ここでは、発掘して出土した資料について、発掘調査を行なった組織や個人が所有するのではなく、発掘地の人びとが所有する「べき」としました。
強制収用といった手続きと関連する事前発掘調査の是非について論じれば、また話しは大きく異なるレベルに発展していかざるを得ないと考えます。もちろん重要問題なので、別途論じられることになるでしょう。
by 五十嵐彰 (2021-06-11 19:19) 

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