SSブログ

三上ほか1968「朝鮮の考古学研究」 [論文時評]

三上 次男・渡部 学・宮田 節子・後藤 直 1968「朝鮮の考古学研究 -シンポジウム 日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか(その12)-」『朝鮮研究』第71号:13-23.(1969『シンポジウム・日本と朝鮮』勁草書房:170-182.所収)

「三上:朝鮮半島の調査はすべて朝鮮総督府指揮下の官製調査であった。その結果、二通りのことが生じた。一つは、日本人学者に調査が独占されてしまったということ。もう一つは、なぜ朝鮮の遺跡を調査しなくてはならないのか、というその意義がぼけて、むしろ効果の多いものに目が向けられていった。それが墳墓偏重になり、楽浪郡時代遺跡の偏重になってきたわけです。民族の歴史の解明よりも、いかにも効果の多いことにばかり集中することになった訳です。そのころは日本でも、同じような考え方で調査がすすめられてきましたから当然のことだったかも知れません。先史時代の朝鮮の歴史の根幹をなしたものの解明に欠けるという結果になったわけです。
ただ一つよかったことは、遺物が原則的にソウルの一箇所に集められて、朝鮮以外の地に出されなかったことですね。そうでなければ、朝鮮のものは全部外国に出はらってしまったと思います。国外にでたものがあったとしても、それは調査以外の方法によって発見されたものであって、総督府関係の調査ででてきた遺物は他国には流れていかなかったようです。」(19.)

シンポジウム自体は、主に渡部・宮田の両氏が三上氏に話しを伺い、それを後藤氏が補うという形で進行する。
それにしても1968年という日韓条約であれほどもめにもめて、文化財協定で何とか胡麻化して決着させてから、わずか3年後に「総督府関係の調査ででてきた遺物は他国には流れてはいかなかったようです」とはどういうことだろうか?
他国には流れなかったが、日本には流れた、流れなかった他国に日本は含まれていない、ということなのだろうか?

1925年に東京帝国大学文学部が朝鮮平壌府外大同江郡において石巌里205号墳(王盱墓)を調査して、大冊の考古誌『楽浪』を刊行したのは、1930年である。当時三上氏は東京帝国大学文学部の2年生である。以来、文学部講師(1939)、博士号授与(満鮮原始墳墓の研究:1961)、東京大学教授定年退官(1967)に至るまで勤務地である本郷の文学部考古学列品室に王盱墓出土遺物が収蔵されていることを知らなかったはずがない。

「三上:もう一つ、これは私が朝鮮の人たちにうかがいたいことなんですが、わりあいと、朝鮮の人たちには、なにか古い「もの」への関心がすくないのではないかと思うのですが、どうなんでしょう。たとえば、古いものがどんどん捨てられてしまうことがある。もちろん、少数の人たちは、歴史に対して非常に関心があると思うのですが、とくに民族意識の強い人たちは。
宮田:それは日帝下でですか。
三上:そうです。
宮田:この頃の状態をみてますと、なにかとても過去の歴史を大切にしているようですからピンとこないのですが。
三上:李朝時代はそうですね。たとえば文献などの文字に対しては敏感ですが物に対しては少しちがいますね。
宮田:文献偏重主義なのですか。
三上:そうなんですね。大事にしないということは、遺物とかそういうものに対して、書かれたものは大切にするけれど、のこされた遺物に対しては、わりあいと関心を示さないということがありはしないでしょうか。」(21.)

勝手に自分たちが乗り込んでいって、一方的に朝鮮の人たちを排除しつつ遺跡の発掘調査をして、出土遺物は自分たちの本国に持って帰り、あの人たちは「なにか古い「もの」への関心がすくないのではないか」とこれまた勝手な憶測を述べる。何とも遣り切れない。

私の拠りどころは、三上氏より1歳年若い、すなわちほぼ同年代の研究者の以下の言葉である。

「文化財は、本来はそれを創造した民族が保存すべきだと思う。同類のものが沢山あるときに、他へ寄贈するのはよいが、文化財は原則として、それをつくりだした民族のものであるべきだと思う。いまアジア・アフリカの文化財の多くが列強の博物館や美術館に集められていて、私のような考えは現実とあまりにも離れているが、私は現実がそもそもまちがっていると思う。アジア・アフリカ侵略の産物が、博物館・美術館に堂々と陳列されていることがおかしいのである。また、そういうものにおぶさって行われてきた従来の研究態度もおかしいと思う。
日本が朝鮮から不法にもちだした文化財は、当然に朝鮮に「返還」すべきである。それは日本から「引き渡す」とか「寄贈」するのではなく、「返還」すべきものである。日本が不法にもちだしたものは、本来、朝鮮民族のものであり、その手へ返還するのが当然である。」(旗田 1965日韓条約と朝鮮文化財返還問題」『歴史学研究』第304号)

三上氏も1968年に発言する3年前に専門誌に発表された旗田氏の文章は十分に知っていたであろう。だから、知った上での発言であろう。当然聞いている三氏も、承知の上のことなのだろう。それにも関わらず、そのことに対する発言がないというのは、彼ら彼女らも「わきまえていた」ということなのだろうか?

「満蒙文化研究部のスタッフは、東京では朝鮮史の旗田巍氏とわたくし、京都では遼史の田村実造・若城久次郎、金史の外山軍治・小川裕人の四氏であった。それは昭和八年(1933)の晩春のことであり、軍国日本が大陸の深い沼地に足をとられはじめた時期であった。」(三上 次男1988「春日抄 -一老研究者の生いたち-」『春日抄 -三上次男随筆集-』中央公論美術出版:37.)

1933年、東京の外務省文化事業部満蒙文化研究事業部で机を並べていた二人の年若い研究者は、戦後の研究姿勢において大きく隔たっていった訳である。


nice!(2)  コメント(2) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 2

橋本

効果が多いとは、なんのことやら。国内もその調子であったとのこと。では今、お墓を発掘調査するというのはどうなんでしょうか。いうなれば、使用中なわけですし。
by 橋本 (2021-05-30 14:41) 

五十嵐彰

「効果の多い」とは、すなわち「宝探し」ということです。自分の国で大形古墳を調査すると不敬罪で重罪となるので、植民地とした隣国で自らの欲望を満たした訳です。
by 五十嵐彰 (2021-05-30 18:23) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。