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酒寄2020「東亜考古学会の渤海研究と満州進出」 [論文時評]

酒寄 雅志 2020「東亜考古学会の渤海研究と満州進出」『歴史学研究』第997号:2-13.

「本稿では、1933、34年に東亜考古学会によって行われたこの「東京城」の発掘調査を中心に、東亜考古学会の満州進出の一端を検証してみたい 1)。」(2.)
「1)  本稿は、『平成16年度~平成18年度科学研究費補助金(基盤研究(C)研究成果報告書 東亜考古学会の東京城調査』(研究代表酒寄雅志、2007年)をもとに改稿した。」(12.)

私がブログで東京城出土の「石製龍頭」について記したのは、今から10年前の2010年4月のことであった。その頃には、すでに「東亜考古学会の東京城調査」をテーマにした科研費研究成果報告書が刊行されていたのであった。まったく知らなかった。

科研費研究の成果であるアジア歴史資料センター史料の国立公文書館および外務省外交史料館所蔵史料による記載がなされている。
私の関心事は、東京城出土遺物の動向である。

1933年(第1次調査)
「東京に届いた発掘物のうち、箱物は17箱、石製獅子を1個1箱に梱包したとして4箱を加えても、合計は21箱にしかならず、海林で列車に積み込んだはずの23箱のうちの2箱が不明である。いかなる理由によるものか判然としない。」(8.)
1934年(第2次調査)
「第2期の調査の成果である石獅子1個と各種の瓦磚、鴟尾破片などの遺物を34箱に積め、前回同様東京帝国大学に送ったが、石獅子2個など一部の遺物は奉天国立博物館に移送されることになった。」(11.)

「1938年(昭和13)12月、東亜考古学会の細川護立会長は外務大臣有田八郎へ、報告書『東京城』が間もなく完成するので、東京城址の発掘物と拾得物を満州国に返還すると報告した。その目録によれば、「平瓦7個・丸瓦7個・瓦当12個・鴟尾破片2個・鬼瓦2個・柱座6個・瓦磚6個・壁画残片4個・鉄扉金具5個・石製獅子頭2個・その他の瓦片」であった。さらに「残存破片」は、京都帝国大学考古学研究室と東京帝国大学考古学研究室に保存することとなった。(中略)
だが1933年の第1期調査終了後に、日本に運んだ東京城の遺物類は23箱、1934年の第2期は34箱にのぼる。これに比して返還数は実にわずかと言わざるをえないのである。」(11.)

外務大臣に報告した返還遺物はどう見ても5~6箱程度であり、筆者の言うように「残存破片」として日本に残された資料は50箱以上となる。実際に本郷には多くの東京城出土資料が残されている。
それも「返還する」という計画を述べた文章であり、「返還した」という報告ではない。実際に「返還」を受けた現地での調査が欠かせない。
調査責任者である原田 淑人氏の発言(1963『東方学』第25号)とは異なり、「文化侵略」と言われても仕方がない現状である。

「外務省文化事業部はもとより日本政府にとっても、日満の友好は日渤の友好にその淵源があり、満州国建国もそうした歴史的名分の下に行われたことを、東亜考古学会の2ヵ年の調査によって確認・証明することができたのである。こうした東亜考古学会の東京城調査は、日本の満州の進出を正当化する学問的裏づけを与えることになったのである。」(12.)

なお筆者は論題をはじめとして本文中でも一貫して「満州進出」である。
「侵略」か「進出」かが問題となったのは、1982年のいわゆる「第一次教科書問題」であり、それ以来、両者の使い分けについては歴史研究者はもとより一般市民レベルでも意識的である。
学術団体だから「進出」という訳には、いかないのではないか。

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