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「砂川遺跡 -旧石器時代研究の過去・現在・未来-」 [研究集会]

砂川遺跡 -旧石器時代研究の過去・現在・未来- シンポジウム/資源環境と人類2019

時間:2019年11月9日(土)10:00~17:00
場所:明治大学グローバルフロント1階 多目的室
主催:明治大学黒耀石研究センター

<口頭発表>(数字は『予稿集』掲載ページ)
・旧石器時代研究の歩みと砂川遺跡の調査(稲田 孝司:1-6.)
・砂川遺跡はどのような遺跡であったか(飯田 茂雄:7-10.)
・砂川遺跡のブロックと礫群(鈴木 忠司:11-16.)
・砂川期とその特徴(堀 恭介:17-23.)
・相模野台地における砂川期(高屋敷 飛鳥:24-29.)
・石材構成に見る「砂川期」の移動形態(山地 雄大・太田 千裕・藤山 龍造:30-33.)
<コメント>
・砂川遺跡の遺跡形成について(野口 淳:34-37.)
・移動生活と石材確保 -砂川類型に見る在地系・非在地系石材の消費-(栗島 義明:38-44.)

「西部戦線(砂川闘争)」の新たな動向、6月に行われた「夏の陣@大正大」に続き、今回は「秋の陣@明大」である。

冒頭、ルロワ・グーランの言葉が紹介された。
「事実を客観的価値のみに限る用語で固めた記録と、なお幅広い根拠をもつにいたらぬ解釈とを、カテゴリー的に分離する研究法を採用することがぜひとも必要である」(Liroi-Gourhan et Brezillon 1972,261頁)(稲田:2.)
ところが砂川モデルの根底にある「個体別資料」は「石質の見かけなどでの分類には当然不正確さがともなうわけだが、…」(同)とされる。既に「事実記載」ともされる報告(記録)レベルにおいて、「客観的価値のみに限」られない「解釈」が導入されているわけである。事実とか客観というレベルに「不正確さ」を持ち込んではいけないのではないか。それがやむを得ない場合でも、極力排除すべく努めるべきではないか。
それにも関わらず「母岩別資料の認定にはあいまいさが常にともなうけれども、主観的だと批判するだけでは生産的でない。日本では黒曜石の原産地同定が飛躍的に進展しており、母岩単位までの区別はすぐには無理としても、珪質頁岩等も含み、よりそれに近づく工夫こそが重要だろう。」(同:4.)とされる。
「よりそれに近づく工夫」が求められているのは、「主観的だと批判する」側ではなく、「母岩別資料の認定」は有効であると主張する側にあるのも、明白であろう。

接合作業の過程において同じような母岩を区分する作業と、「個体別資料分類法」と名付けられた非接合資料をも含んだそれぞれの集合体に資料番号を付与して搬入・製作行為から共有関係に至るまでの解釈をなす研究方法は明確に区別されるべきであろう。接合作業の過程における類似母岩の区分は、世界中どこでも石器の接合作業が行われる限り行われているだろう。当たり前である。誰も黒曜岩とチャートを接合しようとしないのと同じように。だがフランスでもどこでも「個体別資料分類法」などという方法が行われているなどと聞いたことはない。これも当然であろう。

「最終的に「原料の時差消費と二重構成」として要約された「砂川モデル」は、言うまでもなく、砂川遺跡についての分析結果にもとづくひとつの可能な解釈にとどまっている。同時期・同地域の他の遺跡でも成立するパターンであるかどうかすら、具体的な検証はほぼなされていない。上記の通り、空間的に近い多聞寺前遺跡を見ただけでも異なるパターンが認められ、他の遺跡に単純に当てはまるものではないだろう。そういった意味では、砂川遺跡に端を発する一連の研究は、一つの事例を過度に一般化しようとしたことに問題があることが見て取れるだろう。」(野口:36.)

「具体的な検証はほぼなされていない」とされる「ほぼ」という副詞が意味深である。
「砂川モデル」は砂川遺跡以外の「他の遺跡に単純に当てはまるものではない」といったことが、今までどれだけの人によって、どれほど述べられてきただろうか? 

「これまで遺跡空間の分析は、いくつかの遺跡で遺物集中部分の把握等が先駆的に行われていた(芹沢他1959、藤森・戸沢1962等)が、遺跡内構造論は、戸沢らの従事した埼玉県砂川遺跡の発掘調査において、ひとつの体系的研究戦略として提示された。南関東地方の諸遺跡では、通常、互いの視覚的弁別に有利な複数の石器石材が同時に遺跡内に遺存する傾向があり、しかも、剥片剥離過程の部分的過程をそのままその場に残すことが多い。この特徴を利用して、遺跡内出土の大部分の石器を石器原材(母岩)ごとに分け、さらにそれを剥片剥離過程単位(=個体別資料)に区別し、その遺跡内での遺物集中単位ごとの分布を調べ、それと、良好な接合資料の剥片剥離過程の順序と方向を組み合わせることにより、具体的な遺跡内での人間行動の復元と解釈に接近した。その方法は、きわめて革新的であり、かつ合理的であったため、砂川遺跡の研究以降爆発的に増加した旧石器時代の発掘調査例にも支えられて、急速に全国的に流布し、現在においても一般的かつ斉一的な分析法となっている。おそらく、当時ヨーロッパで行われていたフランスのパンセヴァン遺跡(Leroi-Gourhan et Breliion 1972)やドイツのゲナスドルフ遺跡等での空間分析の手法も参照しながら行われたものと思われるが、この方法により初めて、遺跡の構造的分析が可能となり、人間生活の具体的側面に接近する手法をわが国の旧石器考古学が入手した点は、高く評価される。」(佐藤 宏之1992『日本旧石器文化の構造と進化』:21.)

「先行研究の批判的検討として、砂川遺跡における分析や解釈が成り立っているかどうかを詳細に再検討するというアプローチ(五十嵐2013,2019)はもちろんあり得る。しかし砂川遺跡の調査記録、資料提示時代(自体?)の限界もあることから、「砂川モデル」をひとつの作業仮設として、他事例によって成否を検討するというアプローチもあり得るだろう。しかし筆者自身を含めて、そうした取り組みはほぼ行われていない。」(野口:36.)

「ほぼ」に含まれるであろう「他事例によって成否を検討するというアプローチ」としてなされたのが、会場でのコメントでも紹介した国武1999「石材消費と石器製作、廃棄による遺跡の類別」『考古学研究』46-3という論考である。その「アプローチ」自体に大きな問題が含まれていると指摘した論考(五十嵐2002「旧石器資料関係論」『都埋文研究論集』第19号)については、批判対象の研究者からも、他の研究者からも今に至るまで何の反応もない黙殺状態である。

前回「夏の陣」にて提出した「なぜ「砂川モデル」は中央アジアのEUP石器群に対して適用されないのか?」という素朴な疑問に対する回答は、今回も与えられなかった。
まさに「考古学に限らず、あらゆる科学の発展は、先行研究の検証、その発展ないしは批判的再構築によって成り立つものと考えるとき、「砂川モデル」をめぐる状況はきわめて口寒しいと言うよりほかない。」(野口:36.)
こうした場合に「口寒しい」(唇寂し?)といった表現が適切なのか心許ないが、「失われた20年」とは言いうるのではないか? 
1999年と2002年の間には、あの2000年11月5日があったのだから、そうした思いはなおさらである。
それがさらに30年・40年と更新されないことを願うばかりである。
しかしそうはならないであろうことも、その兆しを会場からわずかばかりであるが感じられたのも、今回の集会に参加して得た大きな成果である。

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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「砂川遺跡における分析や解釈が成り立っているかどうか」については、「「砂川モデル」をひとつの作業仮説として、他事例によって成否を検討するという」南関東地方のⅣ層上部出土石器群を対象とした1999年の論考あるいはそれを批判した2002年の論考以来、「そうした取り組みはほぼ行われていない」という経緯と現状が、一つの答えなのではないでしょうか。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2019-11-19 08:03) 

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