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赤松と和島 [学史]

「考協が反動の支柱になることは、当初の会員資格でわかっているので、和島氏とかなり論争したが、彼は内部変革ができると考え、私はとうていダメだ、というわけで、わかれた。戦前も、和島氏の東大入学、専門研究者化に反対したが、そこで意見がわかれたが、結局、和島氏には和島氏の道、私には私の道ということで、彼に迷惑が及ばないよう、唯物論全書「考古学」も彼との共著を単独に切替えた。その結果は周知の通りである。」(赤松 啓介1974「戦う若い諸君へ!」『プロレタリア考古』第9号:2.)

なぜ考闘委(全国考古学闘争委員会)と文全協(文化財保存全国協議会)が、あそこまで反目・対立しなければならなかったのか、当時を知らない世代には、ピンとこないのだが、つまるところ、ここで述べられていることに帰着するのではないかというのが最近の結論である。

「また、42~44年に中国大陸東北地方で考古学的調査を実施しているが、この経験も和島の研究視野拡大にすくなからず影響をあたえている。(中略)
和島は、史的唯物論にもとづく考古学研究の道を選択した理由を問われたとき「ヒューマニズムだよ」と一言でこたえたという。この言葉には、自己の研究活動もさることながら歴史教育・文化財保存にもおおいに情熱を燃やし、労苦をいとわず精力的に行動した和島の人となりや研究者としての姿勢がよく表れている。」(田中 義昭2006「和島誠一(1909~71)」『新版 遺跡保存の事典』:84-5.)

「中国の調査は日中戦争の進行過程に行なわれたことであったが、中国大陸においては広範な中国人民の抵抗によって侵略ははかばかしく進ちょくしてはいなかった。一方国内においては民主的な人人に対して権力による見境のない弾圧が猛威をふるっていた時期でもあった。当然「三沢章」のペンネームで歴史教程に執筆している和島先生に対する追求も日一日と環がせばめられているのが肌で感じられる日日であったという。そうした中で中国大陸に渡る以外に権力の追求から身を守る方途は残されていなかったと聞いている。しかしこの調査が中国人民の犠牲の上になされたということは、先生の生涯を通じて念頭を離れることのなかった痛恨事であった。」(市原 寿文1972「和島誠一先生を追悼して」『歴史評論』第263号:48.)

1942年8月から12月まで「山西省河東平野及び太原盆地北半部」において先史学的調査を行なうということが、単に「研究視野拡大にすくなからず影響をあたえている」といったことで済まされていいのだろうか。これだけでは、何のことやら訳が分からないではないか。
あるいはそのことが「権力の追求から身を守る方途は残されていなかった」から選択されたのだという。
一方は、治安維持法で検挙されて壮絶な拷問を受けていた。
そして調査地とされた戦地では…

「1942年5月、北支那方面軍直轄の第110師団第163歩兵連隊長の上坂 勝は、師団司令部より、八路軍根拠地の覆滅のため、各部隊は地下壕の戦闘には、毒ガスの赤筒および緑筒を使用し、その用法を実験し、作戦終了後その結果と所見を提出するよう命令を受けた。上坂は河北省の定県を出発した麾下の第一大隊(大江芳若大隊長)に、赤筒および緑筒の仕様と所見報告を命じた。第一大隊は定県南方の北蹱村に八路軍の部隊が駐屯しているという情報をもとに、同村を包囲して払暁攻撃をかけた。同村には民兵も組織され、村内の地下には、ゲリラ戦と避難のための坑道が掘られていた。村内の掃蕩を開始した日本軍は、隣村に通ずる坑道を遮断したうえで、多数の住民が避難した地下道に毒ガスの赤筒、緑筒を投げ入れ、多くを窒息させ、苦痛のため飛び出してきた住民を射殺、刺殺、斬殺した。このため八路軍と民兵および住民約800名が殺害された。」(笠原 十九司2011「日本軍の治安戦と三光作戦」『環日本海研究年報』第18号:24.)

「徐州へ、徐州へと侵略する日本軍隊の軍靴を聞くような思いのなかで、やがてぼくたちが弾圧される日も遠くないことを予見したのである。科学的精神の不滅の旗、それは民衆の旗、赤旗であった。この中国侵略戦争の、真只中で民衆の旗、赤旗を堂々と掲げて闘っていたのはぼくたちだけである。やがて、この旗も引きちぎられるだろう。だが、赤旗はいつかまた立てられ、そして未来の人たちはかつてわれわれが押し立てた旗を誇るときがくる。ぼくたちは、それを信じていた。この未来につづく民衆の旗を押したてていた一人は、疑いもなく和島である。戦友としての四十年、彼とともに肩をならべて闘ったぼくは、彼の屍を越えて倒れるまで闘うほかない。ぼくは、日本の未来に明るい希望も、楽観できるような期待ももてないのである。やがて前の暗黒時代よりも、更に惨烈な時代がやってくるだろう。もし、ぼくが生きていたら、疑いもなく若い諸君とともに、和島が押立てた旗を支える。恐らく最後の瞬間に、ぼくは和島の顔を見るだろう。」(赤松 啓介1971「和島誠一氏との四十年」『考古学研究』第18巻 第3号:15.)

赤松は和島との立場の違い、闘い方の違いを明瞭に認識していたが、闘う相手は同じであることも明瞭に認識していただろう。だから終生、同志としての認識は変わらなかった。
個人と組織の違いはあろう。しかし見倣うべき姿勢はあるように思われる。

「民衆は必ずしも正しいとか、理想とかを、それ故に支持するものではない。もしそうなら、とっくに理想社会が実現している。自民政権の独裁体制の永続化は、必ずしも権力だけでなく、また権力にダマされ、おどかされているためだけでなく、やはり民衆の中にも根がある。それを断ち切るのは容易ではない。私は、プロ考の考え方、活動方針を支持する。そして今後も続けることを、まさに要求する。ただ、私は、それとともに考協内部、石川考研の内部で、少しでも現状改善、あるいは改革を志す人々とも協力できる道を探りたい。私は再度、弾圧される日の近いことを予想する。そのときの日のために、最後まで戦うためにこそ、私はそうした道を探りたいのである。」(赤松1974前掲同)

最後まで戦うために。

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