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赤松1967「はてしなき泥濘の道」 [論文時評]

赤松 啓介 1967 「はてしなき泥濘の道 -建国祭の頃の思い出-」『考古学研究』第13巻 第4号:18-32. 「はてしなき泥濘の道 2」同 第14巻 第1号:34-48. (2000『赤松啓介民俗学選集 第5巻 民俗学批評/同時代論』:248-304.所収)

「ごく一部には、皇国史観に積極的に妥協し追随し自らの科学性を犠牲にした研究者も生じたし、それと反対に皇国史観に公然と反対し考古学の科学性を主張して弾圧された研究者も現われたが、研究者の大勢は、現実から眼をそらし、思想性をぬきとることによって、個別的な考証、個々の事実に対する実証的形態的研究に沈潜する方向を歩んだ。」(近藤 義郎1964「戦後日本考古学の反省と課題」『日本考古学の諸問題』:312.)

戦時期の「日本考古学者」の生態に関する有名な「三類型」を提示する一文である。多数派の第三グループはもとより、第一グループについてもここ10年ほどで少しずつその実態が明らかにされてきた。しかし更に少数派の第ニグループについては、どうだろうか。かつては必読とされた本論についても、最近の若い研究者がどれほど知っているか心許なくなってきたので、改めて紹介する次第である。
未完であることを遺憾とする。

筆者の「考古学に夢を」という題名のエッセイについては、かつて紹介したことがある。
筆者の在りし日の画像については、こちらに。

「拷問の実態といったところで、いろいろの方法を紹介するつもりはない。実際に経験してみれば判ることだから、いまから知っておく必要もなかろう。ただ自分でどれだけ拷問に耐えられるかを知りたいなら、指の爪と肉との間へ太い木綿針(を)突込んでみるとよい。椅子へ身体をしばりつけられ、その上に頑健な刑事が三人がかりでおさえつけておいても跳ね上る。隣の部屋で聞いていたら、この世の終りかと思うほどの絶叫だ。こうした拷問をやるのは深夜に警察の武道場へ引き出すのが普通で、必ず三、四名の刑事が組んでくる。一人や二人では死力を出して抵抗されると、かえって危険だからであった。さて自分の番になると、「いうなよ、きっというなよ」と念をおされて、まず針をローソクの火で焼いて見せつけられる。これで身体はふるえ、全身に冷汗が流れるが、恐らく顔は蒼白になっていただろう。いよいよ本番になる前でも、猫がねずみをなぶるみたいにやられる。先方からいえば痛い目をしないですむように、いろいろと慈悲をたれてくれているわけだろう。針を突込まれた瞬間は痛いともなんとも判ったものでなく、自分では絶叫したことすら意識にない。その後で激痛がくるが惑乱してのたうっている耳に「どうや、しゃべるか」「うん」「まだこたえんか」「そら、そらのどまで出かかっているぞ」「いえへんやろ、いえなんだらいわんでええで、かんにんしてもろたる」「いうのならはよいえよ、いうてしもたら、すうっとするもんや」などときれぎれに聞こえてくる。くそ!、くそ!と思っていると次の指をやられた。そのうちになさけないが、気絶して口から泡をふく。「かんにんして呉れ」とか、「助けてくれ」といったから止めてやったなどというが、実際のことは判らない。こんなとき「殺せ」「殺せ」などと怒号したというのは嘘だ。なぐる、蹴る程度なら、そんなこともいえるが、ほんとうの拷問にかかるとそれだけの余裕がない。まあ「お母さん」とか、「お母さん、助けて呉れ」ぐらいはいうのではないかと思う。ぼくは作家でないからうまく描写できないけれども、だいたいの状況は以上の通りであった。針を突込むと肉でしまるのですぐ抜くとか、次次に突込む方が効果が高いとかいろいろいうけれども、やられる方はなにがなにやら判らず、気がつくと股下がジトジトに濡れているが、いつ小便を漏らしたのかそれも記憶にない。なぐられたり、蹴られたりは拷問のうちへ入らず、これをやられるまでに相当可愛がってくれるから、拷問をやられたときの要領はだんだん判ってくる。そういっても拷問が非合法的犯罪的取調べであることは刑事も自覚しているので、たいたいは身体に痕跡を残さないような方法が多い。最もよくやるのが指と指の間へ鉛筆をはさんで締めつける方法だが、これもなかなかこたえる。それから更に進むと「鉄砲かつぎ」「海老責め」など、いろいろと変わったのがあった。釈放されてから結核の疑いでレントゲン写真を撮ると肋骨が折れていたり、ひびが入っていたりするのは、この種の拷問をやられた遺跡(痕跡)である。」(1967-6「はてしなき泥濘の道2」:43-44.)

あの『考古学研究』に「拷問の実態」が掲載されているなど、今の『考古学研究』からは想像もできないだろう。
こうした力を背景にした露悪な嗜虐趣味が、現在のいじめ問題や体罰問題、パワハラに繋がっている。 

「ぼくたちにとって最大の課題は、天皇制を廃止するための具体的な政治的行動とどう密着するのが科学的研究の自由を護りその発展を促進するのか、を考えることだ。」(1967-3「はてしなき泥濘の道」:19.)

そして冒頭から7頁にわたって日本戦闘的無神論者同盟のパンフレット「建国祭に対して闘へ」が紹介されている。

「当時の考古学者の態度は、大山柏が「史前学雑誌」に発表した「神代史と考古学」に尽きている。すなわち、彼はそこで考古学と神代史とはまったく次元が異なるから、神代史に触れないようにせよと忠告したのだ。問題になるようなところを解明しないでも、考古学独自の領域が十分に与えられているではないか、というのがほとんどの考古学者の考えであったわけだ。当時、若輩のぼくは早速一文を草して大山柏の迷蒙を開いてやろうとしたが、あえなく没となって日の目を見られなかった。いま草稿の残っているのを読むと、当時でもあまり問題になるような内容ではなかったと思うが、真向から考古学による日本古代史の批判と解明を、階級的立場に立って推進せよというのだから、公表を憚ったのだろう。ところが、これをどこから漏れたのか東京の青年研究者たちが知り、ぼくとの交遊の機会を生じたのだから面白い。土岐仲雄・佐久達雄・伊豆公夫・三沢章などで、いずれもペンネームであるが知る者は知っているだろう。」(同:27.)

「戦後日本考古学」あるいはその代表的な立場にある組織としての「日本考古学協会」は、こうした人々、すなわち赤松啓介(栗山一夫)・土岐仲雄(坂詰仲男)・佐久達雄(黒田善治)・伊豆公夫(赤木健介)・三沢章(和島誠一)といった人々が本来は中心となって「再建」すべきであったのに、そうはならなかったのも、また周知の事実である。
「はてしなき泥濘の道」を歩んだ末に1945年8月を迎えて心から「解放」と認識する人々ではなく、戦時期の植民地で「華やかだった自由な発掘の出来た」(梅原1947)ことを「永久に世界に誇り得るものと信ずる」(藤田1951)と述べ、「惜しいことに昭和20年になってしまった」(駒井1972)と嘆く人々が中心となったのだから、「日本考古学」の戦争責任認識(戦後意識)が生じるのに時間を要するのも、また必然であろう。


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