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近藤1964「戦後日本考古学の反省と課題」 [論文時評]

近藤 義郎 1964 「戦後日本考古学の反省と課題」『日本考古学の諸問題』考古学研究会十周年記念論文集:311-338.

前々回の記事でその一部を引用して指摘したように、半世紀を経て少しも劣化しない、いやむしろその先見性により重要さが増しつつあるという稀有な今や古典とも言うべき論考である。
本論は、総括的な学史を述べた前半(一 戦前戦中の考古学、二 敗戦と考古学、三 反動的イデオロギーの復活)と個別的な成果と課題について論じた後半(四 登呂遺跡の発掘、五 先土器時代の発見と研究の進展、六 月の輪古墳の発掘、七 遺跡保護の運動)という大きく分けて二部構成になっているが、今回注目したのは「日本考古学」という用語の使い方(使われ方)についてである。
考古学に「日本」という接頭辞が付された用語、あるいはそれに更に「戦後」という時間限定用語が付された用語は、いったいどのような文脈で用いられているのだろうか。
そこから浮かび上がるある考え方について述べてみたい。

【日本考古学】(「日本の考古学」、「戦後考古学」、「戦後日本考古学」を含む)
1. 「戦後日本考古学の反省と課題」(論題)
2. 「その意味では、重大な事態が、日本の考古学の前に立ちあらわれている、といってよいだろう。」(311.)
3. 「この疑問にこたえ今日の事態を克服する途をさぐるためには、戦後日本考古学の歩みを検討してみるほかはない。」(311.)
4. 「日本考古学は抑圧の中に「自由」を亭受し、その「純潔性」を保持したのである。」(313.)
5. 「そこには、日本考古学に対する処遇とは比較にならない侵略政府の援助があった。」(313.)
6. 「…右のような侵略機関の援助があったという事実は、日本考古学にくらべ、むしろ文化工作の一環として侵略政府によってその利用価値がみとめられていたことを疑いなく示している。」(313.)
7. 「…そして日本では果たせない研究をアジア各地でおこなうことによって日本考古学の欠を補い間接的に考古学の「科学性」を守ろうとするためにも、…」(313.)
8. 「このように、日本人学者によるアジア考古学の研究は、日本考古学の貧困つまり研究者の思想性の欠如という土壌の上に、軍事的侵略の進展に促されて発達していったところに、その歴史的性格が示されている。」(313.)
9. 「…一般的に日本考古学にもアジア考古学にも、資料蓄積と個別考証という一定の貢献をおこなうことにつとめた。」(313.)
10. 「したがって、一見はなやかにみえ巨大な成果をあげたはずのアジア考古学も、基本的性格においては、日本考古学と異なるところはなく、…」(314.)
11. 「ここに戦後考古学の動向を規定する最大の要因があった。」(315.)
12. 「以下、紀元節の問題と歴史教育における考古学の問題を通して、戦後考古学の性格をさぐってみた。」(319.)
13. 「その結果は、戦後考古学が果たしてきた役割と成果をあまりにも軽視し、…」(319.)
14. 「…この伝統的性格に対する深い反省があってはじめて、戦後考古学が凡ゆる困難の中から達成してきた諸業績の一切を正当に評価し、…」(319.)
15. 「以下、戦後日本考古学における顕著な事象を、…」(319.)
16. 「水田水路址の発掘という日本の考古学がはじめて経験した困難な作業は、…」(320.)
17. 「…ひとり登呂遺跡の発掘のみの問題というよりひろく日本考古学全体にかかわる問題であった。」(321.)
18. 「…集落の全貌を明かにしようという強烈なばかりの活力とその結果究明された諸事実とが日本考古学に与えた貢献はきわめて大きく、…」(321.)
19. 「登呂遺跡発掘にみられた共同は、客観的に戦後考古学の歩むべき方向を正しくも示しながら、それ自体実り多いものを残すことなく終った。」(323.)
20. 「…戦後日本考古学の重大な成果として今日に至っている。」(323.)
21. 「…人類史の課題をも、日本の考古学に与えることとなった。」(325.)
22. 23. 「…直接的に日本の考古学に、しかも日本史の序史として与えられたことは、日本の考古学の発展と充実に画期的な意味をもったものとして評価されてよいであろう。」(325.)
24. 「…日本考古学の今日までの成果がほとんど世界にしられていないように思われることである。」(326.)
25. 「…私たちは、日本の考古学が世界史の広い舞台の中に、自らの文化の諸階梯とその課題とを位置づける努力を一体どのくらいしてきたかを反省し、…」(326.)
26. 「…一定の画期的な意義を日本考古学の世界に与え、…」(327.)
27. 「以上のように日本の考古学の学風と古墳研究の方法に新しい局面をきりひらいた月の輪古墳の発掘も、…」(330.)
28. 「このようにして、資料は刻々と増加し、日本考古学はその凡ゆる分野において量的に従来と面目を一新するまでに至ったが、…」(333.)
29. 「これまで日本の考古学は、その学問としての社会的意義の自覚の不足から、…」(337.)

本論の論題は、なぜ「考古学の反省と課題」ではなく、「日本考古学の反省と課題」でもなく、「戦後日本考古学の反省と課題」なのか。
それは、「考古学」という学問一般の「反省と課題」を述べるのではなく、日本という特殊な社会の中で営まれた「日本考古学」という特殊な学問について、1964年という時点から振り返る意味合いを、そこに込めたのであろう。

「日本考古学」あるいは「日本の考古学」は20箇所(#2,#4~#10,#16~#18,#21~#29)、「戦後考古学」は5箇所(#11~#14,#19)、「戦後日本考古学」は4箇所(#1,#3,#15,#20)である。「日本考古学」あるいは「日本の考古学」そして「戦後考古学」の多くは、「戦後日本考古学」の語に言い換え可能である。そこに厳密な使い分けは、認められない。

その中で例外は、「戦前戦中の考古学」(311~314)に含まれる箇所(#4~#10)である。戦前戦中の「日本考古学」に言及しているのだから、「戦後日本考古学」に言い換えることができないのは当然のことながら、それではなぜ「戦前戦中の日本考古学」という小見出しにならなかったのだろうか。そこには一筋縄にはいかない複雑なそして他とは異質な意味合いが込められている。
それは、#8・#9・#10の引用文にも表れているように、「日本考古学」という用語が「アジア考古学」という用語と対比的あるいは補完的に用いられているからである。
筆者は当時用いられていた「東亜考古学」あるいは「東洋考古学」という言葉に代えて「アジア考古学」という用語を、「旧植民地および占領地における日本人学者の考古学研究」(313.)あるいは「日本人学者による朝鮮・中国などの考古学的研究」(同)の意味で用いている。

だから第一章の「戦前戦中の考古学」は、前半である第1節(311~313.)は「日本考古学」について、後半である第2節(313~314.)は「アジア考古学」について述べるという構成になる。
こうした戦前戦中の日本人学者の考古学的研究について、旧植民地および占領地(朝鮮・中国)と日本本国あるいは外地と内地に区分して、「日本考古学」を日本本国(内地)に固定して考える歴史観を、「固定史観」とする。

それに対して、私は外地も内地も全て「日本考古学」という名称を与えるべきと考える。だから「日本考古学」の空間的な範囲は、日本社会の空間的な範囲の伸縮に応じて広くもなれば狭くもなる。「日本考古学」は、日本列島・日本本国に限定されないという「伸縮史観」である。
これは、岡本孝之1975「日本=東亜(朝鮮)考古学批判」あるいは黒尾和久2007「日本考古学史研究の課題」『考古学という現代史』に連なる問題意識(学統)である。

「日本考古学」を日本列島のみに限定して考える「固定史観」に立脚する限り、文化財返還問題の真の解決には至らないであろう。


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