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竹岡2019『考古学基礎論』 [全方位書評]

竹岡 俊樹 2019 『考古学基礎論 -資料の見方・捉え方-』雄山閣

冒頭「認知の誤謬」(7-16.)として、「考古学ではない「石器研究」」の事例が挙げられている。
A 人面石器、B 芹沢 長介の珪岩製石器、C 理論考古学(安斎 正人の「素刃石器」、佐藤 宏之の「台形様石器」)、加生沢遺跡、多摩蘭坂遺跡第8地点第1文化層の「台形様石器」、小鹿坂。

「たとえば、茂呂系文化は、南関東地方では、第Ⅸ層、第Ⅶ層、第Ⅳ中~上層に見られる。このことは同じ文化が南関東地方で何度も生まれたのでなければ、他地域で存続していた文化が何度か南関東地方を訪れたということを示している。そして、茂呂系文化は東北地方から九州地方まで広く、かつ長期間にわたって分布しているから(第14図)、茂呂系文化が他地域から何度か南関東地方を訪れたということになる。」(42.)

現在、こうした見解を受け入れている旧石器研究者はどれほどいるだろうか?
そもそも「他地域で存続していた文化」とは、どの地域の、どのような文化なのだろうか?

あるいは以下のような文章について。

「20~30万年前に、ホモ・ハイデルベルゲンシス(旧人)が南方から日本列島に到来して生き延びた。彼らは瀬戸内地方ではサヌカイトを素材とした、ハンドアックスやクリーバー、瀬戸内技法などを組成とする文化を持っていた。」(67.)

「20~30万年前」の「瀬戸内技法などを組成とする文化」とは、具体的にどのような資料なのだろうか?
こうした記述を肯定する旧石器研究者は、どれほどいるだろうか?

象徴的世界1(96~120.)も象徴的世界2(120~127.)も、私の論評能力を超えている領域である。

「資料をよく見ること、分析すること、論理的であること、そして、文化についての知識を蓄積することが考古学を行なうための基本である。」(177.)

山形県寒河江市「富山遺跡」の評価(竹岡 俊樹2005『前期旧石器時代の型式学』学生社:8-44. 竹岡 俊樹2014『考古学崩壊』勉誠出版:224-233.)が、「資料の見方・捉え方」という観点から本書を評価する際にも鍵となるだろう(本ブログのタグクラウド「富山問題」を参照のこと)。
しかし本書では、いっさい触れられていない。

「大学3年の頃から、現状の考古学に疑問を持つようになった。1970年を過ぎて、反体制だったはずの者たちも体制の中に散っていった。大学院に入って文化変容のモデルを作るために関東一円の宝篋印塔を集め始め、本書の題名でもある『考古学基礎論』という雑誌を明治大学と筑波大学の大学院生たちと発刊した(私の在仏中に休刊)。」(177.)

「考古学研究における理論的裏ずけの薄弱さ」は、1958年:考古学手帖の発刊に際して述べられていた。その後20年が経過し、日本列島の至る所で発掘が行なわれ、膨大な量の報告書が刊行されてきた。その間、考古学専攻生、研究者の数は急増したが、しかし、依然として新らたな考古学独自の方法と理論は成立したとはいえない。私達は、新らたな方法と理論の構築へ向けての実験の場として、考古学基礎論を発刊しようと思う。本誌は、次の2つを大きな柱とする。1.資料分析の方法論 2.資料分析をふまえた「文化」、「歴史」に関する考古学独自の考え方 この目的に関するものならば、考古学にこだわらず、いかなる対象、テーマであっても積極的にとりくんでいく。1979年4月」(「発刊にあたって」『考古学基礎論』第1号:表紙裏)

過日、大正大学で行われた日本旧石器学会のシンポジウムで交わされた内容は既に40年前の『考古学基礎論』発刊の際になされていた! 
それどころかここに示されているようにさらに60年前の『考古学手帖』発刊の際になされていた!

「近年、日本考古学の発達に関する反省が高まり研究史に関する書も多数公刊されているが、それらを読むたびに思うことは、考古学研究における理論的な裏ずけが薄弱であるということであり、若い研究者が現学界の研究態度・方法に必ずしも満足していないのも、多くはここに起因しているといえよう。『考古学手帖』を発刊する意図は、学問的に未熟な若い考古学研究徒が、日頃考え、話し合っていることを、印刷物として公刊し、世の批判を受けるためである。そこで『考古学手帖』では、次の項目を編集の大綱とした。1.先史時代の歴史認識の理論的な方法を追求する 2.1の目的を推しすすめるための[資料]の再整備 3.1の目的の基礎となる[学史]の反省 4.以上のことがらに関心をよせられるすべての人々との意見の交換」(1958「あとがき」『考古学手帖』第1号:4.)

第2考古学もこうした系譜に連なるということを確認することができたが、省みるに2019年の現在はどうだろうか? 
前述の旧石器学会シンポジウムを見るまでもなく、こうした潮流の衰退は覆いようがない。
ちなみに『考古学手帖』の編集・発行人は塚田 光(1958年の発刊当時24才)、『考古学基礎論』の発行は考古学談話会で代表は矢島 国雄(1979年の発刊当時30才)である。
若い! 
20代とまではいかなくとも、せめて30代の研究者の奮起を促す次第である。


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