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李2018『闘争の場としての古代史』 [全方位書評]

李 成市(り そんし) 2018 『闘争の場としての古代史 -東アジア史のゆくえ-』岩波書店

「交流の物語は、往々にして自己については競って語るが、他者については自己の延長か操作の対象でしかない。かつての日鮮同祖論は、朝鮮を古来、日本の延長で捉えようとしたが、それと現今の南北朝鮮における渡来人の過大な歴史的評価は対応関係にあるといえよう。(中略)
国家の物語とは、国家間の垣根を高くするものであり、国家の物語の相克は、相互理解を隔て、そうした垣根を益々高くせざるをえない。そもそも、それは、自己と他者とを隔てる内部の言説だからである。国民国家はすでに耐用年数を超えていると言われて久しいが、19世紀に創出された国民国家の物語は依然として生き延び、むしろ東アジア諸国間では物語の相克のなかで強化されている感なしとしない。」(16-17.)

日本画も、日本美術史も、日本史も、日本文化も、民族という概念自体が、外に遭遇した時以来、すなわち近代以降に創出ないしは再生したことが述べられる(第二章 近代国家の形成と「日本史」「日本文化」の発生)。

「朝鮮半島に起つた諸国は、常に東洋の厄介物であつた。それ故に、我が邦は東洋の平和の為に、且は我が国民の安寧を図らんが為に、又進んでは半島の住民に幸福を亭けしめようと云ふ意味を以て、已むことを得ず屡兵を用ひた。之が為に多くの犠牲を供しても顧みず、一意正義の為に事を挙げたのであつた。神功皇后の征韓、日清・日露の両役の如き是である。」(喜田 貞吉1910「韓国併合と教育家の覚悟」『歴史地理』臨時増刊号:130-1.)

「已むことを得ず」?
厚顔というか、独善というか、言葉を失う。
こうした認識はひとり喜田に限らず、幣原 担、岡部 精一、那珂 通世、三浦 周行、久米 邦武など当時の一般的な認識であったことが確認される。
こうした認識を産み出すにあたって大きな作用を果たしたのが、「神功皇后」の「三韓征伐」なる説話である(第三章 三韓征伐 -古代朝鮮支配の言説-)。

「三韓征伐は、神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。」(ウィキペディアより)

こうした記述は、果して適切と言えるだろうか?

「すでに『日本書紀』所載の神功皇后三韓征伐については、戦後の日本史学界でも史料批判論文が続出し、もはや学界においては問題にもならなくなっている。しかしながら『史実』としての古代日本の朝鮮支配については残り続けた。そのような「史実」としての古代日本の朝鮮支配に大きなとどめを刺したのは、伽耶史研究の興隆であったともいえる。いわば本場の韓国における考古学や、文献学の成果に基づく伽耶史研究はともかく、日本における伽耶史研究に市民権をあたえたのは上述のような1970年代の動向であったことは「神功皇后三韓征伐」の記憶の問題としても銘記されるべきであろう。」(65.)

学界では問題にもならなくなっていることが、「史実」としてではなく日本の市民社会に大きな影響を与えうるネット上の言説として現在も「残り続けている」。

驚いたのは、津田 左右吉である。

「或る人が来て、「君は支那が嫌ひだといふのに支那のことをやつてゐる、可笑しいぢやないか」といふ。そこで僕が説明してやつた。糞や小便をうまさうだともよい香だとも思つてゐるものは無いが、それでも毎日それを試験管のなかへ入れたり、顕微鏡でのぞいたりしてゐる学者がある。僕の支那研究にも第一にそれがあると思ひ給へ、これはいかなる事物にせよ、其の本質、其の真相を知らうとする純粋の学問的興味のためである。」(津田 左右吉1926(1965『津田左右吉全集』27:270.))

1939年に「津田左右吉氏の大逆思想」「凶逆不逞」「國體破壊」との攻撃を受け、1940年著書4冊は発禁処分、早稲田大学辞職、出版元の岩波 茂雄と共に出版法違反で起訴、執行猶予2年の判決を受けた。
こうした経緯から「日本と中国とを安易に同文同種の国と称し、日・満・支の一体化による米英排撃を呼号する侵略戦争謳歌の空疎なプロパガンダの横行への義憤の念」(家永 三郎1972『津田左右吉の思想史的研究』362-5.)との評価もなされたが、こうした理解には「根本的な誤解がある」(263-4.)とする。

すなわち津田には根深い中国蔑視があり、「日・満・支の一体化」に反対したのは侵略戦争に対する義憤などではなく、単に一緒にしてもらいたくないという思いであったというのである。
そうであればこそ、戦後の1946年に記した「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』第4号)と題する文章(おそらく投稿を依頼した岩波書店も、そして読者も驚愕したであろう)についても得心される。

「何れにしてもたちのよくないものは取扱に困る。民族としての支那人も同様である。「中国」の虚名と空疎な「東洋文化」の幻影とを誇りとして、旧人も新人も、ごまかしばかりをいつてゐる。さうして正直に忠言をすれば、敵意を含んでそれに対する。厄介至極な隣人である。(『津田左右吉全集』27、442. 1927年3月23日)
南京の騒ぎは言語同断だが(中略)、震災の時、朝鮮人の虐殺をやつた日本人もあまり大きな口はきけないが、あれは虐殺で掠奪はしなかつた。今度は虐殺はしなかつたが掠奪をした。そこにどういう意味があるか、僕にはわからぬが、とにかく、支那人が上等な人間でないことだけは、日々明かになつてゆく。実は三千年の前から同じことである。(『津田左右吉全集』27、444. 1927年3月29日)」(275-6.)

自らの研究対象を愛することが出来ずに、ただ侮蔑のみ、というのは悲劇である。

「1990年以降に日本社会が直面しているのは、まさにポストコロニアル状況、すなわち、国家体制や経済支配としての植民地統治が終わったにもかかわらず、意識構造や自己同一性の様態としての植民地体制が存続する状態であるといわなければならない。経済的な優越性や政治的な特権としての植民地主義が失われたにもかかわらず、国民的な同一性の核としての植民地主義が存続している、否、存続させ、地球規模の変化にもかかわらず、それにしがみつかざるをえないのが現今の状況ではないだろうか。」(280.)

そのほか渤海に関する日本・韓国・朝鮮・中国の言説状況(第4章 渤海史をめぐる民族と国家)、典型的なテクスト分析の手法を「広開土王碑文」に適応した分析(第6章 表象としての広開土王碑文)など、学ぶべき点が多い。

「研究主体の無意識のうちにある植民地主義の克服」すなわち「植民地支配・被支配を超えた内なる植民地主義の自覚と反省がない限り、現在の古代史研究が抱えている本質的な問題は克服できない」(ix.)との姿勢は、現在の「日本考古学」においても要請されている。

「論争的な諸問題に向き合う際に、私がいつも留意したのは、どの学説が正しいのかということではなく、各々の論者は何故そのような学説を導き出そうとするのか、その論者の立場や歴史観、方法など、その所説の拠り所を内在的に検討してみるということであった。」(vii.)

緑川東論争にも適用されうる姿勢である。



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白川・ピリカモシリ社

早速購入して読みました。私も、自分の歴史観が問われていると思います。国際主義と思ってきましたが、国家の歴史観に包摂されていました。研究者の責任が多くあります。既製の歴史書なるものを全て見直しが必要です。ナショナルな視点を一掃していきましょう。
by 白川・ピリカモシリ社 (2018-10-29 07:57) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

古い歴史認識と新しい歴史認識が闘う場所は、まずもって自分の中からですね。新たにされた歴史認識をもって、同じ志しの仲間と闘いの場を広げて、さらに新たにされていくという、終わりのない自己変革の道のりですね。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2018-10-29 14:53) 

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