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田中2017『文化遺産はだれのものか』 [全方位書評]

田中 英資 2017 『文化遺産はだれのものか -トルコ・アナトリア諸文明の遺物をめぐる所有と保護-』春風社

2007年にイギリスの大学に提出した博士論文をもとに、その後の成果も含めて昨春出版された。非常に重要な成果である。

「一般に、文化遺産の返還問題とは、盗難や売買など何らかの事情により本来あった場所から移動した文化遺産(考古学的遺物)に対して、そうしたものが本来あった場所にあるのが自然であるという考え方に基づいて、その返還を求めることである。すなわち、「文化遺産は誰のものか」、「文化遺産はどこにあるべきか」という、文化遺産の所有と保存されるべき場所の二点が争点の中心になっている。」(133.)

トルコは、ギリシャ・エジプトと並んで、数多くの文化財が国外に流出している「原産国」である。
トルコ北西部に住むある人は山に狩猟に出かけて「地面から鉄の棒のようなもの」が突き出ているのを見つけて、そのことを警察に届けなかったということで、逮捕されて刑務所に入れられてしまったという(29.)。トルコでは、いかに政府が考古資料の保全・管理に気を使っているかという逸話である。
その背景には、トルコにおいて遺跡の盗掘や遺物の不法流出が横行している問題がある。
ある人は、「トルコでは耕運機よりも金属探知機の方が多い」とすら言う。

『古代への情熱』で知られるハインリヒ・シュリーマンはトロイとされる遺跡からの出土品を違法にギリシャに持ち出し、更にドイツに運び出してベルリン名誉市民の称号を得ている。その後「トロイの財宝」はベルリン攻防戦で行方不明となり、現在はモスクワのプーシキン美術館が保有している。ドイツ政府はロシア政府に対して返還を求め、トルコ政府は両政府に返還を求めている(119.)。

*「ハットゥシャのスフィンクス」:前16世紀にヒッタイトの都の城門に置かれていた対のスフィンクスの1体。1917年に修復という名目でドイツに持ち出され、1934年からベルリン・ペルガモン博物館が所蔵し展示してきた。トルコ政府は1973年に当時の東ドイツ政府に対して返還交渉を行ない、1987年以降はユネスコを通じてドイツ政府と交渉が続けられた。その後、2011年に返還された。

*「エルマルの銀貨」:アンタルヤ県エルマル近郊で盗掘されて、国外に持ち出された古代ギリシャ時代の約1,900枚の銀貨。1980年代後半から古美術品市場に登場して、欧米諸国の個人収集家や古美術商の所有となった。トルコ政府は収集家や古美術商を相手に訴訟を含めた返還交渉を行ない、1993年から1999年にかけて返還された。現在はアンタルヤ博物館で展示されている。

*「クロイソス王の財宝」:1960年代にウシャク県の古墳から盗掘されて不法に国外に持ち出された前7~6世紀古代リュディア王国時代の遺物。1970年代までにアメリカに持ち込まれて、メトロポリタン博物館古代ギリシャ・ローマ美術部門が購入した。15年以上収蔵庫で保管した後の1984年に「東方ギリシャの財宝」として展示・公開され、1986年にトルコ政府はメトロポリタン博物館に返還を要求、博物館はこれを拒絶、1987年にトルコ政府はアメリカ連邦裁判所に提訴、連邦裁判所は博物館が善意の購買者でないことを認定し、博物館は裁判で勝てる見込みがないことから和解を模索して共同所有を提案、しかしトルコ政府はこれを拒否、1993年にトルコ政府の所有であることで両者の合意が成立し、363点がトルコに返還された。現在はウシャク考古学博物館内の特別展示室で常設展示されている。

*「ペルガモンのゼウス祭壇」:前2世紀にアナトリア北西部ベルガマのアクロポリスに設置されたゼウス祭壇。1860年代後半にドイツ人技師が発見、ベルリンに持ち出されてペルガモン博物館で一般公開された。1948年にソビエト軍が確保、レニングラードに送られた。1958年に「贈り物」として東ドイツに返還された。1980年代末にベルガマ市長選挙に立候補した候補者が返還を公約とする。「もしベルリンが一つになり、ドイツが一つになるならば、ゼウス祭壇とベルガマも一つにならなければならない。」しかし未だに返還されていない。

*「休息するヘラクレス」:1990年アメリカのボストン美術館でヘラクレス像の上半身が展示された。1992年トルコ政府はアンタルヤ近郊のペルゲ遺跡出土の下半身部分の石膏模型をアメリカに持ち込み、両者がピタリと接合することが確認された。1990年代から2000年代にかけてトルコ政府とボストン博物館の返還交渉は遅々として進まず、2004年にようやくボストン博物館と共同所有の個人コレクターとの間で話し合いが着いて、2011年訪米したエルドアン首相が持ち帰る形で返還された。

「石は、そこにあるからこそ重みがある。」(トルコのことわざ)
「歴史は、その場所で最も正しく理解される。」(「クロイソス王の財宝」返還運動を推進したジャーナリスト、オズゲン・アジャル)
「ブランデンブルク門は建てられた場所、ベルリンにあったほうがよい。エッフェル塔もパリにあるべきだ。もしブランデンブルク門やエッフェル塔がイスタンブルにあったら、おかしいと誰もが思うはず。同じように、ゼウス祭壇は冷たく灰色のベルリンの空の下にあるべきではなく、明るく青い地中海の空と調和する。」(「ゼウス祭壇」返還運動を推進したベルガマ市長、セファ・タシュクン)

返還運動を巡る対立する立場、返還を求められる側(現在の所有者)と返還を求める側(本来の所有者)が、普遍主義と相対主義として論じられている(195.)。あるいは文化国際主義と文化民族主義、あるいは「グローバル」と「ローカル」として。実際は、このように単純に二分できるようなものではないだろう。ユネスコなどは、文化の多様性自体が人類の普遍性であるとして、普遍性と個別性の矛盾を解消しようとしている(192.)。

しかし返還を求められている側の反論が一様に浅薄であるのは、どうしたことだろう。

「文化遺産の返還を求める主張への反論として、欧米の主要な博物館は、「人類共通の遺産」としての価値を強調しつつ、文化遺産とはより多くの人の手に届くところにあるべきものだと主張する(例「普遍的な博物館の重要性と価値に関する宣言」)。その点で、文化遺産の返還運動に応じることは、これらの博物館が長い時間をかけて集積してきたコレクションの一体性を壊すことにつながってしまう。また、別の反論として、欧米の博物館による蒐集活動によって、歴史的、考古的遺物が破壊を免れた面もあるという主張がなされることも多い。」(213.)

何と陳腐で貧しいロジックであろう。これこそは、まさに「帝国主義的傲慢さ」である。英語で言えば、'imperialistic imperiousness'である。

第2点について、パルテノン神殿のエルギン・マーブルの返還を要求した際に、ギリシャの文化大臣メリナ・メルクーリは以下のように述べた。
「イギリス人は自分たちが彫刻を保護してしてきたと主張する。その通り、どうも有難うと言いたい。しかし、今やギリシャで保護できるのだから、彫刻は返すべきである。」
それでも、返還しないということは、イギリスは今でもギリシャは適切な保護ができないとでも考えているのだろうか?!

「文化遺産を通して所有されるものは「過去」である。」(138.)
すなわち文化遺産が返還される、文化遺産を返還させる、文化遺産が帰還するということは、過去が取り戻される、過去を取り戻すということである。
「一度手許を離れた文化遺産を取り戻すことは、損なわれた集団の一体性の回復という意義を持つ。」(141.)

他にも言及すべき様々な点が多々述べられている。
古美術品取り引き(骨董業界)を巡る様々な問題、不法(不当)と合法(正当)の線引きについて。
私有と公有、取り引き(流通)をどのようにどの程度、制限すべきなのか。
例えば、現在の日本では、縄紋・弥生といった先史遺物については原則「埋蔵文化財」という法的制度のもとで商品的な価値は否定されているように思われる。
しかしこうした枠組みは、時代が新しくなるにつれて変容していく。
古代まではまだしも、中世や近世にまで適用すれば、古美術(骨董)業界自体の存続問題となるだろう。
しかしこうしたある意味で極めて「ナイーブ」な問題が、公の場で語られたということは、寡聞にして聞かない。

本書は、現代トルコが事例となったために、遡ってもオスマン帝国まで、それ以前のヒッタイトからセルジュークに至る複雑で様々な民族の興亡、それぞれの関わりについては余り述べられていないし、読む側の基礎知識自体が乏しくて追い付かない。
しかし現代の返還運動に先住民との関わりは欠かせない。トルコの場合には、クルドなど更に複雑な政治問題が絡んでいることも充分推測できる。

また「文化遺産の保護」において何が「適切」であるかの議論(272.)では、「倫理」的な側面が欠かせないだろう。
誰が、どのように「保護」することが「倫理的に適切なのか」という点こそが、返還問題の核心である。
トルコでも、オーストラリアでも、アメリカでも、イタリアでも、エチオピアでも、そして日本でも。


タグ:返還問題
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