SSブログ

2018『武蔵台遺跡・武蔵国分寺跡関連遺跡』 [考古誌批評]

東京都埋蔵文化財センター 2018 『府中市 武蔵台遺跡・武蔵国分寺跡関連遺跡 -都立府中療育センター改築工事に伴う埋蔵文化財発掘調査-』東京都埋蔵文化財センター調査報告 第334集(第1分冊 旧石器時代編・第2分冊 縄文時代以降編)

待望の考古誌である。
ここでは、第1分冊の「第4図 武蔵台遺跡・武蔵国分寺跡関連遺跡における調査地点」(20頁)という挿図を読み解くことを課題とする。

#1「本調査区」以外に以下の8種類の調査区が各種のスクリーントーンで表示されている。
#2「薄いトーン」武蔵国分寺跡関連遺跡(府中市教育委員会)
#3「薄いトーンに密な〇」武蔵国分寺跡関連遺跡(府中市遺跡調査会)
#4「薄いトーンに疎な〇」武蔵台遺跡(都立府中病院内遺跡調査会)
#5「やや濃いトーン」武蔵台東遺跡(都営川越道住宅遺跡調査会)
#6「濃いトーン」武蔵国分寺跡関連遺跡・武蔵台遺跡(東京都埋蔵文化財センター)
#7「濃いトーンに左下がり斜線」武蔵台遺跡(東京都埋蔵文化財センター)
#8「薄いトーンに右下がり斜線」武蔵国分寺跡関連遺跡(東京都埋蔵文化財センター)
#9「濃いトーンに幅のある横線」武蔵国分寺跡関連遺跡(武蔵台西地区)(東京都埋蔵文化財センター)

すなわち、5つの調査組織(府中市教育委員会・府中市遺跡調査会・都立府中病院内遺跡調査会・都営川越道住宅遺跡調査会・東京都埋蔵文化財センター)による4つの(あるいは5つの)<遺跡>(武蔵国分寺跡関連・武蔵台・武蔵台東・武蔵国分寺跡関連 武蔵台・武蔵国分寺跡関連(武蔵台西))の調査履歴が示されている。こうした複雑な関係が1枚の挿図に圧縮して表示されているが、その相互の関係を理解するのは容易ではない。そもそも9種類の微妙なトーンの差異を識別していく作業自体が難行である。

#2に該当
<1> 府中市教育委員会・府中市遺跡調査会2001『武蔵国府の調査19 -平成10年度府中市内発掘調査概報-』:150-171.⇒府中市1020次調査(根岸病院地区)<本書文献欄に記載なし>
#3に該当
<2> 府中市教育委員会・府中市遺跡調査会2000『武蔵国分寺跡調査報告4 -北西地域(多摩蘭坂遺跡)の調査1 都営府中武蔵台二丁目第3アパート建設に伴う事前調査-』府中市埋蔵文化財調査報告 第28集⇒府中市816次調査<本書文献欄に記載なし>
#4に該当
<3> 都立府中病院内遺跡調査会1980『武蔵国分寺遺跡発掘調査報告書 -都立府中病院医師公舎建設地の調査-』⇒第1次調査(医師公舎建設)
<4> 都立府中病院内遺跡調査会1984『武蔵台遺跡Ⅰ -武蔵国分寺跡西方地区の調査-』⇒第2次調査(外来棟建設・付帯施設工事)
<5> 都立府中病院内遺跡調査会1989『武蔵台遺跡Ⅱ -資料編1-』⇒第3次調査B地区(多摩がん検診センター建設)
<6> 都立府中病院内遺跡調査会1992『武蔵台遺跡Ⅱ -資料編4-』⇒第4次調査(看護婦宿舎芙蓉寮建て替え)、第5次調査(看護婦宿舎さつき寮建て替え)
<7> 都立府中病院内遺跡調査会1993『武蔵台遺跡Ⅱ -資料編5-』⇒第3次調査W地区(多摩がん検診センター駐車場建設)
<8> 都立府中病院内遺跡調査会1994『武蔵台遺跡Ⅱ -資料編2-』⇒第3次調査A地区(病棟増築)、E・F・K・X地区
<9> 都立府中病院内遺跡調査会1995『武蔵台遺跡Ⅱ -資料編3-』⇒第3次調査C~Y地区(病棟増築・多摩がん検診センター付帯工事)
<10> 都立府中病院内遺跡調査会1996『武蔵台遺跡Ⅱ -資料編6・附編-』⇒第3次調査(E・L地区)、第6次調査(非常用発電機)、都立府中療育センター建設ほか
<11> 都立府中病院内遺跡調査会1996『武蔵台遺跡Ⅲ』(都立府中看護専門学校建設)⇒おそらく第7次調査(未確認)
<12> 府中病院内遺跡調査会1997『府中病院道路拡張に伴う試掘調査報告書Ⅰ』<本書文献欄に記載なし>
<13> 府中病院内遺跡調査会1998『府中病院道路拡張に伴う調査報告書』<本書文献欄に記載なし>
<14> 都立府中病院内遺跡調査会1999『武蔵台遺跡Ⅳ』⇒第8次調査(看護婦宿舎等整備)
#5に該当
<15> 都営川越道住宅遺跡調査会1999『武蔵台東遺跡』
#6に該当
<16> 東京都埋蔵文化財センター2010『武蔵国分寺跡関連遺跡・武蔵台遺跡 -多摩総合医療センター(仮称)等建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査-』(第1~5分冊)東京都埋蔵文化財センター調査報告 第239集
#7に該当
<17> 東京都埋蔵文化財センター2000『武蔵台遺跡 -都立府中病院新外来棟増改修工事に伴う調査報告-』東京都埋蔵文化財センター調査報告 第78集
<18> 東京都埋蔵文化財センター2013『武蔵台遺跡 -旧都立府中病院解体に伴うインフラ切り回し工事に伴う埋蔵文化財発掘調査-』東京都埋蔵文化財センター調査報告 第283集
#8に該当
<19> 東京都埋蔵文化財センター 2014 『武蔵国分寺跡関連遺跡 -都立武蔵台学園増築及び改修工事に伴う埋蔵文化財発掘調査-』東京都埋蔵文化財センター調査報告 第295集<本書文献欄に記載なし>
#9に該当
<20> 東京都埋蔵文化財センター2004『武蔵国分寺跡関連遺跡(武蔵台西地区) -府中都市計画道路3・3・8号線建設事業に伴う調査-』東京都埋蔵文化財センター調査報告 第149集

さて#2と#3の違い、すなわち同じ<遺跡>名称である「武蔵国分寺跡関連遺跡」を異なる調査組織(府中市教育委員会と府中市遺跡調査会)で区別する意味は何だろうか?
そして#6、#7、#8、#9の違い、すなわち同じ調査組織(東京都埋蔵文化財センター)が調査した近接する異なる遺跡<名称>(「武蔵国分寺跡関連遺跡・武蔵台遺跡」、「武蔵台遺跡」、「武蔵国分寺跡関連遺跡」、「武蔵国分寺跡関連遺跡(武蔵台西地区)」)の違いは何を意味しているのだろうか?

こうした事柄を、圧縮された挿図「第4図 武蔵台遺跡・武蔵国分寺跡関連遺跡における調査地点」および関連した文章から読み取ることはほとんど不可能といってよいだろう。

府中市教育委員会と府中市遺跡調査会は、一心同体の存在ではないか? 文献<1>と<2>では発行主体として両者が併記されている。
また「武蔵国分寺跡関連遺跡・武蔵台遺跡あるいは武蔵台遺跡・武蔵国分寺跡関連遺跡」、「武蔵台遺跡」、「武蔵国分寺跡関連遺跡」の違いは、広範な古代を主体とする「武蔵国分寺跡関連遺跡」(府中市No.1包蔵地・国分寺市No.19包蔵地)の中に旧石器時代を主体とする「武蔵台遺跡」(府中市No.5包蔵地)が重複して登録されていることが大きく関わっている。すなわち該当する調査区が狭い範囲である「武蔵台遺跡」の中に納まれば「武蔵台遺跡」単独表記となり、「武蔵台遺跡」の範囲から外れるが「武蔵国分寺関連遺跡」の中に納まれば「武蔵国分寺跡関連遺跡」単独表記となり、ある部分は「武蔵台遺跡」から外れるがある部分は「武蔵台遺跡」にかかっていれば両者の併記(どちらを前にして表記するかは「武蔵台」の範囲が調査区全体に占める割合で過半となるかならないかによるものと推測される)となる。

これはもう「レトリック」といった領域を超えた魔術のようなものだろう。なぜなら、当初考えられた「武蔵台遺跡」の包蔵範囲自体が、1970年代以来半世紀に及ぶ発掘調査の蓄積によって、東は黒鐘谷を隔てた「武蔵台東遺跡」から西は「武蔵台西地区」とされた南北に走る都市計画道路を境とする「多摩蘭坂遺跡」に至るまで、途切れることなく国分寺崖線上に連綿と分布していることが明らかとなっているからであり、現状の「武蔵台遺跡」の範囲なるものは有名無実と化していることは誰の眼にも明らかであるからである。
このことは都市計画道路の西側に位置する「都営府中武蔵台二丁目第3アパート」建設に伴う府中市816次調査の報告<2>において如実に表明されている。

「当調査地区の所在地は府中市の遺跡名では本来「武蔵国分寺跡・関連遺跡」として登録されているが、国分寺市側の「多摩蘭坂遺跡」(国分寺市内藤1丁目)と隣接し、その一部であると判断したため、本書では以下周知の遺跡名である「多摩蘭坂遺跡」で記述する。」(府中市教育委員会・府中市遺跡調査会2000『武蔵国分寺跡調査報告4』:26.)
何と調査地の登録名称と報告名称が異なるのである!
こうした<遺跡>問題の矛盾が集約して表出しているのが、本書の扱う「武蔵台遺跡」周辺の状況である。

「「遺跡地図」は、<遺跡>を学問対象とする考古学者が有する空間認識の表出である。そして、現行の「遺跡地図」を受容するということは、とりもなおさず現在の日本考古学に携わる研究者の空間認知能力を示してもいる。」(五十嵐2005「遺跡地図論」『史紋』第3号:103.)

「<遺跡>問題とは、何か? それは、<遺跡>とは何かという本質的な問題に目を向けることなく隠蔽している体質をいう。<遺跡>問題は、単独の主題で構成されているわけではない。先史的な<遺跡>イメージに基づく実体視が、「包蔵地」という区分単位を成立させ、それが埋蔵文化財制度の遂行に欠かせない要件となり、<遺跡>の発掘調査、その成果としての<遺跡>調査報告書(考古誌)あるいは<遺跡>地図・<遺跡>台帳などの行政資料の整備、さらにそれらが<遺跡>を実体視する私たちの考え方を補強していく。」(五十嵐2007「<遺跡>問題」『近世・近現代考古学入門』:252.)

第4図は、こうした錯綜した現状を見事に表現しているとも言えよう。
それでは、なぜこのようなことになっているのか?
その一つの要因は、本書の第4図が、そもそも2010年「都埋文第239集」<16>で作成された第2図「調査地区とグリッドの設定」という挿図(ここでは「本調査範囲」以外に5つの調査区種別が表現されている)、続く2013年「都埋文第283集」<18>の第2図「調査地区とグリット(ママ)の設定」という挿図(ここでは「本調査範囲」以外に6つの調査区種別が表現されている)を吟味することなく踏襲して、さらに#3「武蔵国分寺跡関連遺跡(府中市遺跡調査会)」と#8「武蔵国分寺跡関連遺跡(東京都埋蔵文化財センター)」を付け加えたことにあるだろう。

そもそも本書の第4図を表現するために利用されている上掲20冊の書籍(考古誌)のうち、本書末尾の「引用・参考文献」(357-358頁)で示されているのは、15冊に過ぎない。これでは、読者が当該調査区周辺で積み重ねられてきた成果と矛盾に満ちた状況について理解するのは至難の業である。

やや煩瑣ではあるが、学問研究に対する姿勢と事前に何の手助けもなし得なかった反省も込めて、そして今年の夏に予定されている当<遺跡>を主題とする研究集会に備える意味をも込めて、内部関係者の責務として事柄の一端を詳述した次第である。


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。