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黒尾2017「韓国・昌寧古墳群の出土品「鉄道貨車二台分」は「事実」か?「伝説」か?」 [論文時評]

黒尾 和久 2017 「韓国・昌寧古墳群の出土品「鉄道貨車二台分」は「事実」か? 「伝説」か? -『韓国の失われた文化財』出版を機に省察する-」『二十一世紀考古学の現在』山本暉久先生古稀記念論集、六一書房:681-690.

「本稿は、『韓国の失われた文化財』を媒介にして、自らの歴史認識について省察を行う、その一里塚である。」(681.)

筆者が本論を記すに至った経緯をまとめると以下のようになる。

金 泰定1988「『日本書紀』に現れた対韓観」『先史・古代の韓国と日本』で昌寧の出土品が「鉄道貨車二台分」になったという記述に対する編者である斉藤 忠1988「本書の編集にあたって」『先史・古代の韓国と日本』の「伝説化」という「釘刺し」、そして李 亀烈1993『失われた朝鮮文化』における金1988と同様の記述から、その根拠が梅原 末治1946『朝鮮古代の文化』ではなく、同1947『朝鮮古代の墓制』であることを確かめて、斎藤の「釘刺し」は「退けられるべき」との結論を得る。
最近になって、黄 壽永編(李 洋秀・李 素玲訳)2016『韓国の失われた文化財 -増補 日帝期文化財被害資料-』の解題(李 基星)によって、原書(黄1973)の誤りが正されていること(梅原1946ではなく1947であること)を確認する。

「…斉藤は、恩師・梅原の死後わずか5年で、「事実」を「伝説化したもの」とした。それも事実なのである。あったことをなしとした、その心情とはいかなるものだろう。見方によれば、それは恩師・梅原の「証言」の否定であり、強く言うならば学史的事実の改竄とすらいいえるだろう。」(687.)

「韓国・昌寧古墳群の出土品「鉄道貨車二台分」」について述べる際に、穴沢 咊光・馬目 順一1975「昌寧校洞古墳群 -「梅原考古資料」を中心とした谷井済一氏発掘資料の研究-」『考古学雑誌』第60巻 第4号:23-75.を逸することはできないだろう(特に註(8))。
穴沢・馬目1975の末尾謝辞には、斎藤 忠氏の名前も挙げられている。

「今世紀に入つてからの日本人の海外發展、殊に大陸方面への進出は専ら政治経済の面に重點が置かれ、強力な軍備を背景としてこれを推進すると言ふ傾向が顕著であつた為に、文化的な事業は殆んど閑却せられ、引いてそれをば一層強行した今次の大戦の敗北に依つて、不見目な終末を告げるの外なきことになつた。たゞこの間にあつて朝鮮半島に於ける古蹟調査事業のみは、それに聯関した歴史博物館の経営と相俟つて、勢力圏内に於ける恒久性を持つた文化面の一つの事業と言ひ得るものであつて、それは単に半島古代文物の状態を闡明する上に役立つたばかりでなく、廣く東亞古代文化の研究に寄與する効果をも挙げた點で、世界の東洋學界の注目を聚めたものであつた。彼の平壌を中心とする漢楽浪郡時代の遺跡の調査が、従来殆んど未開拓のまゝにのこされた支那大陸の考古學的研究に一つの基準を與へたが如き、或は同地附近や北邊外の通溝地方に於ける高句麗時代の壁畫古墳の検出が、南鮮慶州に於ける新羅盛時の優れた彫刻建築遺構の検出と相俟つて、東亜の古美術研究に新しい資料を提供し、その六朝から唐代への間の知見を著しく擴充した事などは今や學界の常識として、それが日本考古學の名聲を高からしめるに大きな役割を果たしたものであり、更に新羅の古都に於ける金冠・金鈴・瑞鳳等の諸墳の発掘に依つて、黄金珠玉に充された遺寶の出現したことは大いに世俗的な興味を高めた次第であつたのである。」(梅原 末治1946『朝鮮古代の文化』高桐書院:1-2.)

「東亜考古学」を牽引した研究者が敗戦直後に記した文章であるが、当時の心境が伺われて興味深い。
「不見目」は、今や死語であろう。現在は、「惨め」という表記に置き換わっている。
当事者は自らの発掘調査によって「日本考古学」の名声を高めたという自己評価であるが、そのことによってもたらされた多くの「負の遺産」を返すことに消極的であることによって、今や「日本考古学」の名声を貶めている。

「以上の諸調査を通じて同地方に著しい積石塚の構造が確かめられたばかりでなく、別に一部壁畫のある土塚の存することが分り等して関係知見は劃期的な躍進を見ましたが、大正八年に勃發した半島の独立運動に依つて、爾後同地方が土匪の巣窟と化し、學術調査の続行を不可能ならしめると言ふ遺憾な状態に置かれました。それが満洲事變を契機として新國家の建設を見るに至り、日満人の努力に依る治安の改善に伴ひ、國内の古代文化遺跡の保存顕彰にも注意が拂はれる様になつて、再び開始せられたのは欣ぶ可きであります。」(梅原 末治1947『朝鮮の古代墓制』座右寶刊行會:33.)

評価すべき観点は、単に新たな知見を得たとか真面目に努力したといったことではなく、どのようなスタンス・立場性で行動したのか、発言したのかという点である。
何を「遺憾」としているのか。何を「喜んで」いるのか。
朝鮮半島の独立を支持して日本の植民地支配に反対する立場で、朝鮮半島の考古学的調査を行なったのか。
それとも朝鮮半島の独立運動を阻止し日本の植民地支配を支持する立場で、朝鮮半島の考古学的調査を行なったのか。
それは、先学を評価する現時点における私たちの行動・発言についても、当て嵌まる。
多くの「負の遺産」が身近にあることを知りながら、知らない振りをし続けるのか、それともできることから少しづつ行動していくのか。

不当に日本にもたらされた文化財(考古資料)の返還は、先に言及した穴沢・馬目1975のような未報告の考古誌の刊行(穴澤・馬目1973「羅州潘南面古墳群 -「梅原考古資料」による谷井済一氏発掘遺物の研究-」『古代学研究』第70号、有光 教一・藤井 和夫2000『朝鮮古蹟研究會遺稿Ⅰ -慶州皇吾里第16號墳・慶州路西里215番地古墳発掘調査報告1932-1933-』東洋文庫、同2002『朝鮮古蹟研究會遺稿Ⅱ -公州宋山里第29號墳・高霊主山第39號発掘調査報告1933,1939』東洋文庫など)と共に、後進の者に委ねられた責務である。

結局は、冒頭引用文にあるように自らの「歴史認識」が問われているということである。

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