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斉藤1978『半拉城と他の史蹟』 [考古誌批評]

斉藤 優 1978『半拉城と他の史蹟』半拉城史刊行会

「…戦死された渡辺部隊長以下の戦友、満州側各位の冥福を祈り、他面に健在戦友の健康を祝福し、私の記念のためにも充分ではないが、半拉城と他の史蹟の名のもとに、一度は印刷されたものであるが、追想等をまぜて取り纏めたものである。」(自序:1977年5月5日)

筆者の斉藤 優氏は、三宅1944で「斉藤甚兵衛軍曹」、三宅・鈴木1977で「S軍曹」とされた方である。
「実は九才で父が亡くなったので襲名したが、小学校の先生が旧式に改ためるのは可哀相だと父のつけて呉れた名を今も通称としており、家の付き合いには家名をつかっていると説明した。」(137.)
「通称」が優、「家名(戸籍名)」が甚平衛である。

「満洲事変以来、大東亜戦の終戦までに応召した人は一千万を遥かに越えていると思う。それらの中には色々の人がいたことから、軍務の外に戦地又は外地で種々の分野の調査研究をした人も少くないに違いない。しかし、それを報告書その他に出版した人となると、作家などは別として余り多くはあるまい。私は一介の野人に過ぎないが、所謂若い村の考古学徒として、渤海伝には日本道として見えている五京の一、東京龍原府址の半拉城を発掘調査し報告書を刊行した。その生涯は幼少にして両親に死別し、たった一人の祖母にも死なれ、孤独になった上に入営、再三の応召と不幸であったと云う外はないが、この点だけは、ほんとうに幸だったと自ら慰めている。」(自序)
「それは第九十七兵站病院で、通称は第八二〇四部隊又は隊長名により渡辺部隊と呼ぶことになったが、総員五百名前後、下士官だけでも数十名であった。二、三日して満州方面に行くことだけは判明したので、隊長以下公用以外は外出できなかったけれど、公用外出する同僚の下士官に満洲の歴史なり東洋史の書物なら何でもいいから二、三冊頼むと依頼したところ、及川儀右エ門著の「満洲通史」(昭和十年 博文館)と同人著の「東洋史」二冊を買って来て呉れた。(中略)やり場のない退屈まぎれに、幸に持ち込んでいた週間誌(ママ)のようなものを讀んでいる者もあったので、私も持っていた「満洲通史」に目を通していたが、たまたま渤海国のところにその五京の一、東京竜原府の下に琿春付近の文字を見出した。琿春は我々の走っている列車の目的地ではないか。今はただ退屈な輸送列車だった記憶しかないが、琿春付近の文字を見出した時の印象は今も記憶している。」(113.)

考古学を趣味としていた「若い村の考古学徒」が、戦地の赴任先に有名な遺跡があることを知り、様々な偶然と周囲の好意によって、発掘調査を行ない、考古誌を刊行し(斉藤 甚平衛1942『半拉城 -渤海の遺蹟調査-』琿春県公署)、それが36年の後に増補して再刊されることになった。

「受付らしい所に一人の准尉がいたので事情を説明したところ、「何だ召集でも君は軍曹だから立派な軍人ではないか、そんなことを一々司令部に来なくても君のところの部隊長さえ許可すれば少しも差支えない、一個分隊でも二個分隊でも出してもらって何処でも行ってこいよ、君それ何か儲かるのか」儲かるのなら一口仲間になるぞと云わんばかりのおどけた顔をした。横に来ていた一人の軍属が、「儲かるもんですか、君それ考古学だろう」「そうです」「君、大山さんを知っているかね、大山柏」「知っています」直接に会談したことはなかったけれど、公爵の屋敷内にあった大山史前学研究所にいた人を尋ねた時、偶然そこに居られたことを話した。僕の部屋に来いとのことで一所(ママ)について行ったが、そこは小さな部屋で机の正面には若い中尉が座っていた。私の敬礼がすむと簡単に私の来意を説明し、そこが参謀部兵要地誌班で、班長は竹原辰巳中尉だと紹介されたので、私は部隊名と官氏名を述べて挨拶した。竹原中尉も先きの准尉と同様なことを述べていたが、それと前後して軍属は狩野幸一と自己紹介した。彼は大山公爵の書生だった人で、東京外語を出た通訳であった。それで考古学を理解していると云って私の希望を励まし、そこにあった「琿春県誌」の名勝、史跡のところを無造作にさいて呉れ、皆とも一時間前後雑談して帰った。」(115.)

そして数人の戦友と実地踏査を行ない、図らずも塔跡を確認し、司令部から写真機を借り、デパートの写真部にいたという兵士に写真を撮ってもらい、役所からトランシットなどの測量機器を借りて実測図を作成し、たまたま訪れた上級将校の知遇を得て、2年前に刊行された東亜考古学会による『東京城』の豪華考古誌を購入してもらい、それがきっかけとなって県の「建国十周年記念事業」に半拉城の発掘調査が採択されることになった。

最初の一週間(3月17日~23日)は「人夫」が十名前後、それ以降(3月27日~4月20日)は各種学校生徒たちによる勤労作業(3月27日「三家子優級国民学校生徒」31名、28日「半拉城子国民学校生徒」・「三家子優級国民学校生徒」23名、4月1日「新安学校生徒」66名、2日「新安校生徒」29名、3日「海星校生徒」32名、5日「明徳校長以下生徒」50名余、6日「青年訓練所生徒職員」50名、8日「日満学院生徒」30名、10日「国民高等学校生徒」47名、11日「国民高等学校生徒」27名・「日満学院生徒」30名、13日「高等国民学校生徒」、14日「高等国民学校一年生」50名、15日「海星校生徒」30名、16日「明徳校生徒」、17日「青年訓練所生徒」、18日「日満学院生徒」、19日「国民高等学校生徒」、20日「新安校生徒」)によって、発掘調査がなされた。
「考古学的発掘の経験のまったくない」という意味ではその通りであるが、「大勢の兵隊を指揮して、掘って掘りまくった」(三宅1977)とは、大分イメージが異なる。

「其の後に於ける氏の努力は悉く周囲を敬服させ、餘り熱意のない予までも其の渦中に我知らず引き入れられると云う有様で、半島同胞の無邪気な青少年が寒風冷雨雪にもみるまず(ママ)発掘に喜々として従事したことも一面氏の感化だと思う。斯くして此の金玉篇は作り上げられたのだが、此種の事業は祖国日本に於てせらるるならば単なる学問の範囲を出ぬかも知れぬが、これが海外しかも極めて祖国と接触の密な此方面で行われると云うことは、必ずや民族間の固き結合に寄与することが多いと思う。予は此意味に於て氏の作業の価値を大きく認めるものである。本報告が基礎となって、更に偉大なる学問的の発見となり、ひいて大東亜諸民族融合の資料となるならば、斎藤氏の業績は千古不滅と云えよう。予は又哀心よりそれを祈念する。」(序文:陸軍中将 遠山 登)

「新安校生徒」は「小学生」(147.)とのことで、植民地住民の子供たちがこうした作業にどの程度「喜々として従事した」かについては図りがたい。また当時の軍隊世界において軍曹と中将の階級的隔たりがどの程度であったかについても私には想像できないが、一下士官の発案した事業に将校がこうした文章を寄せるということ自体が異例なことではなかったか? それはある立場からすれば「琿春駐在の日本軍軍司令官が考古学に興味を持っていた部下にそそのかされて」(三宅1977)ということになるのだろう。そしてたとえ本人の発案の意図がどれほど純粋であったとしても、結局は「大東亜諸民族融合」といった侵略戦争・植民地経営を正当化する材料とされるのも必然であろう。

『太平洋戦争と考古学』(坂詰 秀一1997)では、半拉城の発掘調査について「等閑視することができない」(117.)とのみ述べられている。半拉城の発掘調査については、2012~13年度に「東洋史」分野で科学研究費による研究が行われ、成果報告書(斉藤 優著・小野 智子編著2015『斉藤優遺稿集:渤海半拉城址発掘史にみる近代東アジアの軍事と文化』)が刊行されている(未見)。



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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

本文では遠山氏の文章について訝しみながら「…寒風冷雨雪にもみるまず(ママ)…」と記したのですが、このたび原典を参照したところ「…寒風冷雨雪にもひるまず…」と正確に記されていました。斎藤1942から斉藤1978に転記する際に誤記が生じたようで「痛恨のエラー」と言うべきでしょう。自戒。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2018-04-05 08:23) 

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