SSブログ

藤森1969「日本考古学への断想」 [論文時評]

藤森 栄一 1969 「日本考古学への断想」『中央公論』第987号(第84巻 第11号)1969年11月1日発行:264-276.

「玩物趣味から生きた人間生活の復原探求へ 日本考古学と共に歩んだ学究の回顧と反省」と記された半世紀前の文章である。以前に紹介した『心の灯』は、本論の2年後に出版された。

冒頭の小見出しは、「資料のつぶて」である。
本文が記された時代背景を知らないと、何のことか皆目見当がつかないだろう。

「この正月の夢を破った東大紛争の頂点、安田砦の攻防戦で、なによりも私をおどろかせたのは、文学部考古学教室の、明治以来たくさんの考古学者が命をかけて世界の各地から将来した考古学資料が礫に割られて投石の弾になったという、ごく一握りの学生たちのハプニングであった。
追いつめられれば、むろん人間はダイヤでも金貨でも投げるだろう。(中略)
わたしにとって、それはそれはあまりに強いショッキングな事実であった。大学というところへは、とうとう縁がむすべず、それでもなお、地方の混沌たる生活の中に浮きしずみしながら学問を恋いつづけ、大学をしたいとおしてきた、私という一人の研究者にとっては、呆然と旬日を送ってしまうほどの凄いパンチだったといえる。」(264.)

1969年1月には、ここで記された「安田砦の攻防戦」があり東大入試は中止となる。10月21日には「国際反戦デー闘争」、10月25日には「平安博物館闘争」(福田 敏一2007「地人たちの彷徨」『考古学という現代史』参照)、11月16-17日には「佐藤首相訪米阻止闘争」、正に激動の年である。
私は当時小学2年生ぐらいで、リアルタイムの記憶は殆どというか全くない。当時の記憶は同年7月20日の月面着陸について、夜中に寝ているところを無理矢理起こされたのでかすかに覚えているぐらいである。こうした数年の世代間格差(ジェネレーション・ギャップ)は大きい。

「大学と同じに、考古学という学問自体も、一つのきびしい断絶の時期に遭逢している。好学者大衆、アマチュアといっていいかどうか、それに学生からのつき上げに対しては、貝のように殻をとじて、じっと自分の資料に沈潜するほか手段もないのが、多くの学者の動きである。それでもなお、ひたすらに資料の増加をのぞみ、中には何年前もの発掘データも、未発表のままかかえ込んで、なおも遮二無二発掘に挺身する。
独占資本の破壊でも、記録保存という便法のために、資金さえ出ることなら、破壊に協力しても、資料が増すだけプラスと考え、月謝を払っている学生をお手子に追いまわすのだから、学生が発掘の主旨目的もよくわからず、ただ何となく人夫に使われることに、強い抵抗を感じて、独占資本の破壊のお先棒をかつぐのはごめんだというのは当然のなりゆきである。
終生を大学に住みついて、安穏で高雅なる生活を終えられる学者とちがって、学生は、たった数年にすぎないストレンジャーである。資料は数かぎりなく蓄積されていて、レポートとして世に出たものわずか、そのわずかすら、実は汗牛充棟で学生にとっては高嶺の花、へたな学校へ入ったのではみることもかなわない。
学問大衆の欲するものは、実はもう、古き学究の死守してきた資料でなくて、もっと生きて血のかよっていた人々の歴史なのである。東大文学部で考古学資料を叩き割って、投石につかった学生の心境は知るべくもないけれど、すべての資料学が資料を集積する時期から、それを編成すべき反省期に入ってきたことは事実のようである。それは判例に法の精神がほかされてしまう法学も、治療に経歴が優先する医学も、文献から一歩も出られず、なんにも知らない作家に正しい歴史の復原を先んじられる史学も同じことである。」(276.)

一部の突出した学生の行為に衝撃を受けつつも「諏訪考古学研究所」を肩書とした筆者が、問題を提起した側の立場にあることは理解できよう。

最近亡くなられた先学が記念碑的な論考(岩崎1970)で提起した数々の問題を想起する。

1. 戦前の考古学の反省すべき点は、何であったのか?
2. 現在われわれは、その反省を貴重な糧とし、それを踏まえて研究を行っているだろうか?
3. 考古学研究の現在的意義は何なのか?
4. 研究者は、研究成果をどのように社会に還元すべきなのか?
5. 研究者の社会的実践はどうあるべきなのか?

全国的な定期刊行物に文章が掲載されるような影響力を有した筆者と学内で「研究者の社会的責任」を問うた先学あるいは本論が発表された同年に同じような題名で自らの意見を公にした先学(小林 三郎1969「考古学界断想」『考古学ジャーナル』第35号:【2013-05-22】記事参照)そして自らの行動として問題を提起した人びとが結び合って一つの「流れ」を形成することはできなかったのだろうか、という思いが消え去らない。
それは「この(中略)闘争が戦前・戦後を通じて、日本の考古学にとってみずからが構造的にはらんでいる矛盾をその根源にまでさかのぼって解決し得るほとんど唯一のチャンスであったにもかかわらず、これを流産せしめてしまった原因が当時の考古学界の在り方はもとより学生の側も含めて、奈辺にあったのか」(福田2007:103.)という問題意識に通じる。そして「その根源」とは、「戦前から現在にいたるまで、つまり敗戦という画期を経てもなお何ら解決されずに一貫して継続している侵略考古学・考古学者の戦争責任の問題」(同:169.)であるのなら、「文化財返還」という課題を通じて今なお現在進行形であること、そして「貝のように殻をとじて、じっと自分の資料に沈潜するほか手段もない」(藤森1969)、「「早く研究発表を始めてほしい」という圧倒的な参会者の声」(岩崎1970)、「趣味的な考古学や専門バカ的な考古学」(小林1969)に代表される個別実証主義・研究至上主義に対して、「人間の感性をとりもどすこと」(藤森1969)「研究することだけが目的ではない」(岩崎1970)という「公共考古学(パブリック・アーケオロジー)」を先取りするような根源的な問題提起を共有する機会は半世紀を経た今日においても、なお可能性として有り続けるだろう。

「ただひたすらに高きへと それは人々の知らぬ けわしい路」のように。


nice!(2)  コメント(2) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 2

鬼の城

この藤森の意見には2の大嘘がある。まず、土器が破壊されたのは理学部人類学教室である。次に土器を破壊したのは機動隊による放水であり、学生が土器を破壊したのではない。当時のマスコミ報道を無批判に信じて「学生側悪である」と言うスタンスは共産党と共通するものがある。

私は、安田講堂抗戦後に成城大学山内清男研究室にいたが、そこに東大理学部闘争委員会のメンバーがいた。彼らは機動隊による土器破壊とは言え山内先生に謝罪しに来ていた。横で、何食わぬ顔をして聞いていると、学生の謝罪を踏まえて山内先生は「いいんだよ。土器の中に爆弾でも入れて機動隊に投げればよかった」と冗談交じりに言っていたことを覚えている。
by 鬼の城 (2018-02-24 07:41) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

私は、文化財返還問題を通じて、今なお根源にさかのぼって解決する可能性があるのではないかと考えています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2018-02-24 08:38) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。