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斉藤(小野)2015『斉藤優遺稿集』 [全方位書評]

斉藤 優(小野 智子 翻刻・注解・編著・発行) 2015 『斉藤優遺稿集:渤海半拉城址発掘史にみる近現代東アジアの軍事と文化』

「筆者は、元来渤海国の仏教文化に関心をもち、特に斉藤が半拉城址で発見した二仏並座像の分析を中心に研究していた。しかし、これら二仏並座像は、いついかなる経緯で発掘され、総じて何体発見され、現在それらはどこに所蔵されているのかが明らかになっておらず、筆者はそのような現状に疑問を抱き、これらの解明に関心を寄せてきた。何故なら、渤海の遺跡の場合、発掘行為自体が大変な政治的事業であり、出土遺物をどこの研究機関で所蔵するかという問題は、時々の政治的動向に左右され続けてきたため、これらの史実を明らかにすることは、渤海史のみならず、近代日本と東アジアの政治的背景を明らかにすることに繋がる重要課題だからである。故に筆者は、渤海の半拉城址の発掘調査史とそこから出土した二仏並座像をはじめとする仏教関係遺物の所管経緯を解明することを始めた。」(はじめに:1.)

遺稿本文とその詳細な注解、2本の考察「斉藤優の遺稿集について -その史料的価値の考察を中心に-」・「台湾国立故宮博物院所蔵の渤海二仏並座像について」、参考史料として陸軍戦時名簿など、略年譜・著作一覧、参考文献、あとがき -斉藤優さんと寛昭さん、そして私- よりなる刊行物である。

半拉城から出土した「二仏並座像」は光背部分のみの資料を含めて9点ある。その内3点が東京大学に、6点が台北国立故宮博物院に所蔵されている。出土したのはウラジオストクからもほど近い朝鮮国境沿いの琿春(フンチュン)である。なぜそれらが、1000km以上離れた東京そして2000km以上離れた台湾にあるのか?

「中華民国は、1948(民国37)年6月、南京中央博物院籌備処兼代主任の杭立武が中央信託局に、日本から遺物を返還させることを計画する文書「国立中央博物院籌備處公函」を提出した。この文書の概略は、杭立武が、日本から返還させる「翡翠屏風」などの文物を接収するために、専門の設計委員である李霖燦を中央信託局に派遣して、接収の手続きを進める旨を伝える内容である。日本においては、当事の中華民国駐日代表団第3組が日本の賠償と帰還事業を担当し、1946(民国35)年の秋に「中華民国賠償帰還代表団」を、翌1947(民国36)年9月に「賠償及帰還物資接収委員会」を組織し、いずれも第3組組長の呉半農(1905-1978)が代表を勤めた。こうして中華民国政府と駐日代表団が連携して、帰還接収事業を推進した。そして中華民国への文物の返還は、1949(民国38)年までに計3回、民国政府が台湾に還った後(1949年以降)は、全6回に渡って行われ、そのうちの1951(民国40)年の第5回の運搬にて、渤海の遺物が返還された[小野(森田)2012]。
一方、戦後日本は、1948年に賠償庁を組織して賠償実施に関する事務を取り扱った。略奪した文化財の返還に向けて、賠償庁は1949年8月1日に、当時東京大学に勤務していた駒井和愛に中国よりの略奪文化財に関する調査事務を臨時委嘱した[駒井1977:駒井年譜8]。そしてGHQは賠償問題に関して日本政府への指令を行っており、以下に述べる通り、日本と中華民国との賠償行為において仲介役を果たしていた。」(82.)

「掠奪せる考古学標本の在日目録について」(1947:東京大学総合図書館所蔵)、「中国より持ち去られたる文化財及び図書の全国調査の件」・「戦時中被占領諸国より持去られる文化財及図書に対する全国的探索について」(1949:東京大学総合図書館所蔵)といったGHQの指示によって作成されたリストをもとに、現在も日本に所在する「掠奪せる考古学標本」の現状を確認する作業が必要である。
「いついかなる経緯で発掘され、総じて何体発見され、現在それらはどこに所蔵されているのかが明らかになって」いないのは、半拉城出土の二仏並座像だけではなく、1933・34年調査の「東京城」や「鴻臚井碑」をはじめ戦時期に日本人によって調査された植民地考古学関連資料の殆ど全てといっていいのではないか?

「歴史家は、研究対象となる史資料と、あるいはその対象となる人物と、一定の距離を保ちながら批判的に向き合い、科学的な見解を打ち出さなくてはならない。しかし、それは同時に、学術研究では汲みとりきれずにこぼれ落ちてしまうものがあることを意味すると私は思う。しかし、そんな学術研究をする歴史家だからこそ、このアジアの大地に懸命に生きた人々に対して、そして、その人物を大事に思うご遺族に対してそっと寄り添い、その想いのすべてを受けとめたいとも思う。それがいかに難しく果てしない営みで、そんなことを願うこと自体が傲慢なのかもしれない。でも私は、あえて言いたい。このアジアの大地に生きたすべての人々と、この大地に現在生きているすべての人々に対して、可能な限りの想像力をはたらかせ、寄り添い続けたいと。そしてひとりの生涯を心から尊重したいと。そのために、ささやかな日常を懸命に生き、少しでも多くの経験をし、多様な感情を咀嚼し、しなやかでゆたかな想像力をはたらかせることのできる能力を涵養したい。そして、この世界に散りばめられている幾多の煌めきと沈み隠れる罪と痛みに気づけるよう、いつまでも瑞々しい感受性を保ち続けたい。」(あとがき:159.)

「然かも、其の滅亡後、最後の使節であつた斐璆が、醍後天皇の延長八年(引用者:930年)悲壮なる決意を以て来朝し、其の回復を謀つたと思惟される史實を回想し、千載後、露國其の他の満洲侵略を返撃し、其の独立を援助指導し、渤海の系統をひかせられる皇帝を上に戴き五族協和の王道満洲帝国は建國早くも十周年を迎へて其の洋々たる繁栄は近世史上の偉観とも稱すべく、更に日満華三國同盟の締結によつて眞の三國の舊交が復活されたことは蓋し歴史的必然の勢であつたと云へよう。
我々は死せる歴史よりも、生ける歴史により重大なる意義の存在することを忘れてはならない。」(斉藤 甚平衛(優)1942「満洲國間島省琿春縣半拉城に就いて」『考古学雑誌』第32巻 第5号:37.)

「死んだ歴史」ではない「生きた歴史」を求める困難さを痛感する。
「寒風冷雨雪」の中、勤労作業を強いられた植民地の小学生たちの思いについても、「しなやかでゆたかな想像力をはたらかせることのできる能力を涵養したい。」


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