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中西2017「立川陸軍航空廠五日市分廠倉庫の発見」 [近現代考古学]

中西 充 2017 「立川陸軍航空廠五日市分廠倉庫の発見 -あきる野市水草木遺跡の調査成果より-」『多摩地域史研究会会報』第128号:6-15.

「今回発表する戦争遺跡の存在を知ったのは、調査に入ってからのことであり、それ以前は全くその存在について意識していなかった。
調査区周辺は長閑な畑地が広がり、かつてこの場所に多数の倉庫が林立した面影は、今は微塵も感じられない。
今回の調査地点は15年戦争終結前後の数年間に、通称「引田陸軍倉庫」が存在したと言われている場所に当たる。発掘調査開始からしばらくして、付近の住民の方から倉庫が出なかったかとの問い合わせがあった。この存在についての伝承的記憶は、ほとんどの近隣畑地耕作者が共有していた。しかしすでに多くの時が経過していることから、直接その存在を知る人は極限られていた。僅かな聞き取り調査や今回の調査からこの地に存在したことは確実である。」(6.)

近しい人が業務で調査を担当した場所から見出した近現代の土地利用痕跡について、地域の研究会の例会で発表された報告である。文章自体は、当該の考古誌『あきる野市 水草木遺跡 -一般都道伊奈福生線(第165号)道路整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査-』東京都埋蔵文化財センター2016 調査報告 第309集
の「まとめ」部分をほとんどそのまま再録したものである。

私も同じような経験をしたことがある。
1996年から1997年にかけて三鷹市の公団住宅の建替え工事に伴う調査によって、予想もしなかった近現代の土地利用痕跡に遭遇して、その経緯をまとめたことがあった(『三鷹市 島屋敷遺跡』東京都埋蔵文化財センター1998 調査報告 第55集、五十嵐1999「幻の津村薬用植物園 -島屋敷遺跡から検出された近現代遺構を端緒として-」『東京都埋蔵文化財センター 研究論集』第17号:41-57.)。

こうした経験が後年、以下のような文章を記す下地となった。

「私たちは、単に壊されるから発掘をするのではない。地中に存在する様々な痕跡は、私たちに対する過去からの呼びかけ、過ぎ去った死者たちからの呼びかけである。そうした呼びかけに対する現在に生きる私たちの応答が、発掘調査であり考古学なのである。そのような私たちの記憶を呼び覚ます場所は、従来の先史考古学的見解に基づく限定的な<遺跡>範囲や立地に拘束されない。近現代考古学が示すように「記憶の場」でもある<遺跡>は、「どこを掘っても決まって出てくる地下水のようにわたしたちの足もとにある」(岩崎2005:197)のである。
それは事前に予期することが、殆ど不可能な事態である。ある開発行為が計画される時、多くの場合にそうした地中に埋没している土地の記憶が考慮されるようなことは滅多にない。しかし実際に発掘調査が行われると、事前に予想もしない様々な痕跡が現われ、否応無く様々な過去が発掘担当者・土地所有者・土地開発者・地域住民の目の前に現出することになる。そこに、調査者たちの意図しない土地の記憶が蘇る。私たちにできることは調査を通じて調査者なりの応答をなすことである。」(五十嵐2008「「日本考古学」の意味機構」『考古学という可能性』雄山閣:28-29.)

「報告書では機械部品の確かな用途について、ほとんど言及することができなかった。状況は今も同様である。航空機の部品である可能性は高いが、どの部位に使用されたものか多くの課題として残した。とはいえ、今回の調査ではじめてその実態が見えてきたことも事実であろう。」(14.)

研究会の会報に記された本文章だが、そこで言及・引用されている文献が明記されておらず、元文献である考古誌を参照しなければならないのが残念である。
しかし「調査者なりの応答」がなされていることは、ひしひしと感じとることができる。

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