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「アイヌ民族の遺骨返還の意義と研究倫理」 [研究集会]

アイヌ民族の遺骨返還の意義と研究倫理 -心のこもった返還のために-
大学と地域の先住民族・マイノリティの対話と連携に基づいたエンパワーメントに関する研究

日時:2016年7月14日
場所:北海道大学
主催:北海道大学メディア・コミュニケーション研究院

第1部 イントロダクション
主催者挨拶(ジェフ・ゲーマン)
趣旨と背景の説明(小田 博志)
アイヌの葬制と死生観(鵜澤 加那子)
第2部 「ストーリーテリング」:祖先とつながり直す
ボブ・サム・結城 幸司
第3部 パネルディスカッション:遺骨返還と研究倫理
天野 哲也・井上 勝生・加藤 博文・蔵田 伸雄

研究集会の報告書がpdfで公開されている。

「このアイヌ遺骨の問題について、残念なことに、北海道大学の中では、自由に話し合える場が、これまでありませんでした。まず北大の構成員として、当事者意識を持って、自らの足元の歴史を振り返る、そして反省する、そういう場を持ちたいと思いました。今日のシンポジウムのタイトルに「研究倫理」という言葉が含まれています。倫理というのはつまり、何をしていいのか、悪いのかっていう事ですね。研究とか学問という名目のもとでも、人間としてしてはいけないことっていうのがあると思います。それが難しい言葉で言うと研究倫理ということです。私たちの先輩が本当に研究倫理に適ったことをやっていたのか、あるいはそうではなかったのか。この残された負の遺産というべき1000体以上のアイヌの方々の遺骨が、北大のキャンパスの中のアイヌ納骨堂というところに今も収蔵されています。過去だけでなく、現在においてもその遺骨との関わりが、本当に倫理的だと言えるのか。これらのことをじっくりと振り返って、見て見ぬふりをするというのではなくて、正面から見つめ、向き合って、議論したいというふうに思いました。
私がかねがねその必要性を感じているのは「対話の場」です。今日のポイントは、1つには北大のメンバーとして、自分たちの過去を誠実に振り返るっていうことです。それを今日だけで終わるのではなくて、継続的に取組んでいきたいと思います。そしてアイヌの皆さんと北大の構成員との間で ー簡単に申し上げられないことは承知の上で、目指すべきこととして述べますとー 対話と協力の関係に繋がっていくような、そういう場を作っていきたいというふうに思っております。」(小田 博志:第1部)

「負の遺産」は、北大にある「1000体以上のアイヌの方々の遺骨」だけではない。遺骨と同時に取得されていた「児玉コレクション」と呼ばれる膨大な副葬品も、そして日本の各地の大学・博物館に収蔵されている戦時期に朝鮮半島・中国大陸で取得された様々な文化財もそうである。
現在のそれら文化財と私たちとの関わりは、本当に倫理的と言えるのだろうか?

キーワードは「エシカル」(倫理的であること)である。

「研究は確かに大事なものです。しかし、今ここで私たちが考えなくてはいけないことは、どんなにそれが優れた研究であったにせよ、そこから得られる結果が良かったにせよ、人を悲しませるような研究はしてはいけないという一点であると思います。その研究をすることによるメリットもあるでしょう。例えば、DNAがそうですね。それによって、ルーツが分かるっていうことを言う人がいるかもしれません。でも得られる情報は、果たして全てが人々にとってプラスになる情報なのでしょうか。もし困る人がいたり、マイナスの情報がもたらされる時には、その研究自体を再検討しなくてはいけません。今日、鵜澤さんが話されていた価値観の違いですね。皆が同じ価値観を持っている訳ではありません。井上先生のお話にもありましたように、死者に対する考え方も韓国と日本では違う訳です。私たちは、日本という国の中で研究していたにせよ、日本側で作られた研究の倫理をアイヌの人たちに押し付ける権利は無いはずです。大事なことは、アイヌの人たちが死者に対してどういう思いで接するのかということをベースにして考えなくてはいけない。我々がいかに、この研究は大事だと主張しても、それがアイヌの人たちの中で決してそれには同意できない、それを拒む意見があるのであれば、そういう研究はしてはいけないと(いう)ことが研究を行う上での基本的なルールとなるべきだと思います。
次に私たちの義務ということで言えば、今回の返還ですが85年経って、故郷に遺骨が帰りますね。一番大きな問題は、遺骨を大学が放置してきたことに関する責任を考えなくてはいけないと思うのです。誰もこの問題を真摯に捉えてこなかった。海馬澤さんが請求を始めたのは1980年代ですから。今日小田さんからもお話しがあったように、この問題についてほとんど学内では情報が共有されていません。今、返還がどういう形で動いているのか、どういう組織が対処しているのか、大学はどう考えているのか、大学側は教員ひとりひとりに対して機会を持って説明したことがありません。多くの教員が実はこの問題を知らないんですね。問題はもうひとつあって、僕たちは研究者です。知らないのであれば知らなきゃいけない。知るように努力したでしょうか。してこなかった。むしろ、知らないふりをしていた。そういう部分に問題があると思うんです。
ジェフさんが言ってましたが、こういう問題の研究会を立ち上げたりする人の数は決して多くありません。自分も含めてですが、北海道大学で起きた問題を北海道大学の中から解決していく方向に行かなければ、この問題の本質は解決できないと思うのです。自浄能力と言いますね。自分たちの起こしたことを自分たちで処理していく。そういった能力がもし働かなくなった時に、果たして大学は研究の自由というものを社会に対して主張していくことが出来るのでしょうか。大きな転換点に私たちは立たされていると思います。
研究知識の正確な共有がなされていません。当然研究ですから、研究者自身の関心からスタートすることになりますが、誰のための研究なのか、誰のための歴史なのかということを考えないと北海道で、このアイヌの人たちが暮らしてきた場所での歴史の研究は出来ません。そこが研究者の中で誰のための研究なのかという意識、問いかけが欠落してきたところに大きな問題があるのです。当事者を排除してきたのです。研究は確かに必要でしょう。100%の否定は私もする気はありません。私は2001年から北大に勤めていますが、このアイヌ遺骨問題については、まず過去の起きたことに対する謝罪と反省が不可欠だと思います。」(第3部:加藤 博文)

極めて重要なこと、そして極めて当たり前のことが述べられている。しかしこうした当たり前のことが今まで語られたことはほとんどなかったのではないか?
大学という組織を評価する基準は、大学の構成員が発表した学術論文の被引用数や卒業生の就職率だけではないはずである。倫理的な組織であることも、評価の重要な基準である。エシカルなユニバーシティであること。

「ヘルシンキ宣言という世界医師会が出した医学研究の宣言があって、日本医師会も世界医師会の下にあるので、日本の医学研究者もヘルシンキ宣言に従わなければならないわけです。このヘルシンキ宣言で言っていることは、どれほど医学的に意味がある利益が得られる研究であっても、個人の人権、あるいは人間の尊厳を損なうような研究をしてはならないということです。それによって医学研究が遅れるようなことがあっても、そのような研究をしてはならないということが、ヘルシンキ宣言の基本的な考え方なのです。ヘルシンキ宣言は医学研究のための宣言ですが、他の分野の研究についても同じようなことが言えると思います。
どれほど学問的な利益が得られるとしても人権、あるいは人間の尊厳が優先されると私は考えます。だから、研究よりも、広い意味での遺族の方々、つまりコタンに住む人々の意向や思い、骨が盗まれた場所に住むコタンに住む人々の意向や思いは研究よりも優先されなければならないと思います。」(第3部:蔵田 伸雄)

ヘルシンキ宣言(ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則)は、1964年6月世界医師会第18回総会で採択された。
少なくとも北大医学部によって1965年に江別市対雁(ついしかり)共同墓地でなされた発掘調査、あるいは海馬澤 博氏が提出した質問状に対する1982年の北大医学部長の返信内容、そして何よりも「遺骨を大学が放置してきたこと」は、ヘルシンキ宣言の精神に反するものである。当然のことながら、現在進められている「民族共生の象徴となる空間」についても当該宣言の厳守が求められるだろう。エシカルな組織であること。

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