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「謎多き大形石棒を学ぶ」(予告) [研究集会]

「謎多き大形石棒を学ぶ」

日時:11月19日(日)13時~15時30分
場所:くにたち郷土文化館(東京都国立市谷保6231)
講師:柴田 徹、五十嵐 彰、中村 耕作

「敷石遺構SV1の平面形は、長径3.3m、短径3.1mのほぼ円形で、深さは0.6mです。全体の形は柄鏡形と思われますが、北側の張り出し部は攪乱で破壊されて、その有無は不明です。炉跡や焼土が確認されなかったため、敷石住居ではなく、敷石遺構と呼んでいます。敷石遺構の床面に河原石を敷き、その中央に4本の大形石棒を横たえて置いています。壁際には縁石をめぐらし、壁には河原石を積み重ねています。

 大形石棒は2本ずつ東西に分けて、頭部を南西方向に向け、床面より約10cm掘り下げ、頭部側にわずかに傾けて、横位に出土しました。大形石棒の下には敷石はありませんでしたが、これは敷石を剥いで石棒を置いたものか、当初から敷石がなかったかどうかは不明です。」(「国指定重要文化財 緑川東遺跡出土 大形石棒」パンフレットより)

 

こうした理解が、現時点での「敷石遺構SV1」の公的な見解と思われる。SV1を通常の敷石住居ではないと判断した根拠として「炉跡や焼土が確認されなかった」ことが挙げられている。これは「完掘時において炉址が検出されず、また床面上に大型石棒が並置されていたことから、遺構種別を住居から敷石遺構(SV1)に変更した」という考古誌(『緑川東遺跡 27地点-』:12頁)に準拠した記述である。壁際の縁石および壁面の積み石についても言及されているが、敷石遺構の根拠とした文脈からは外されている。果たしてこうした理解はすべての人に共有されたものだろうか?(以下引用文中の下線は引用者)

「炉や焼土が確認されず、また、縁辺の構造や規模からみても、…(一般的な)敷石住居の特徴とは異なり、住居とは言えません。」(清水 周20132月「国立市 緑川東遺跡」『東京都遺跡調査・研究発表会38 発表要旨』東京都教育委員会)

縁辺に複数段の積石があるという構造や、炉や焼土が確認されないことなどから、敷石住居の特徴とは異なる箇所も多く、現段階では住居と断定することは困難である。」(清水 周20135月「4本の大型石棒を伴う敷石遺構:国立市緑川東遺跡」『東京の遺跡』第99号)

「…炉や焼土がまったく確認されず、縁の構造や規模から見ても、これまで発見されている敷石住居の特徴とは異なり、この遺構は住居とはいえません。」(清水 周20136月「東京都国立市 緑川東遺跡」『発掘された日本列島2013』文化庁編)

縁辺に複数段の積石があるという構造や、炉や焼土が確認されないなど、…現段階では住居とは判断できず、…」(清水 周201310月「四本の大型石棒と敷石遺構」『別冊太陽 縄文の力』日本のこころ212

縁辺に複数段の積石があるという構造や、炉や焼土が確認されないことなどから、敷石住居の特徴とは異なる箇所も多く、現段階では住居と断定することは困難であり、…」(清水 周201311 「4本の大型石棒を伴う敷石遺構 東京都国立市緑川東遺跡」『季刊 考古学』第125号)

 

緑川東問題 第1期(石棒発見20126月から考古誌刊行20143月まで)では、調査担当者が調査成果の概略を様々な媒体で速報的に伝える時期である。そこでは一般的な敷石住居とは異なる点として炉や焼土が確認されなかったことと共に縁辺に複数段の積石があるという遺構自体の構造と規模が挙げられていた。そして4本の大形石棒については「当初からの祭祀色の強い意図的な配置」としてSV1が特殊な遺構であることが強く示唆されていた。言わば「特殊遺構製作時設置説」が考古誌刊行以前においては、一貫して示されていたということである。。

緑川東問題 第2期(考古誌刊行20143月から緑川東問題提出20165月まで)の考古誌『緑川東遺跡 ‐第27地点‐』では、一般的な敷石住居の廃絶時に中央部分の敷石と炉を除去して大形石棒を設置したとして「当初からの祭祀色の強い意図的な配置」という考えは「安易に石棒儀礼の象徴的事例として注目する指摘」(長田2014164頁)として却下された。しかし同時に別の研究者は「単に縁石をめぐらすだけでなく、その上の壁面に全面的に礫を積み上げる」(和田 哲2014「敷石遺構と石棒」『緑川東遺跡 ‐第27地点‐』169頁)という「壁面積石」あるいは「細長い土坑」(171頁)そして「主軸方向が全く異なること」(171頁)といった様々な点を指摘して、SV1について「単なる敷石遺構ではなく特別な祭祀的空間と理解される」(174頁)とする理解を示していた。緑川東遺跡の考古誌自体にこうした矛盾が内包されていたが、特殊遺構であることと共に一般住居の再利用を意味する敷石の除去を主張していたために、そのことが問題視されることはなかった。

引き続き「…(SV1の)深い掘り込みは、壁面に礫を積み上げるためのものであり、通常の敷石住居とは異なるもので、最初から特別の祭祀・儀礼の場として構築されたことを物語っている」(和田 哲201410月「緑川東遺跡の敷石遺構と石棒」『くにたち発掘』:36頁)としつつ「…敷石を除去後平坦にならして石棒を配置したと推測される」(37頁)と説明されていた。あるいは「…本遺構の深さは際立っている。この事実もまた、遺構種別を住居とせず…」(清水 周20155月「緑川東遺跡と四本の大型石棒」『多摩考古』第45号:17頁)としつつ「…住居として使用した後に、当該部分の敷石を剥いで浅い掘り込みを設けた後に石棒を設置したことが推測されている」と矛盾は解決されないままであった。

201511月には専門誌において「縄文時代の大形石棒」と題する特集号が発刊された。当然のことながら、緑川東遺跡の大形石棒についても取り上げられた。「…石積みの壁と床面の敷石は認められるものの、炉跡や焼土が確認されず、代わりに床面上に大形石棒4本が平置されていたことから、住居とはせず敷石遺構とした。…向郷遺跡や緑川東遺跡でこれまでに確認されている竪穴の掘り込みは極めて浅く、大半は20cm以下であるのに対し、本遺構の深さは際立っている。この事実もまた、遺構種別を住居とせず敷石遺構としている理由の一つである。…石棒の出土範囲からは敷石が認められないことと、石棒の下面半部が埋まっていることから、住居として使用した後に、当該部分の敷石を剥いで浅い掘り込みを設けた後に石棒を設置したことが推測されている。」(清水 周201511月「大形石棒の出土状況 東京都緑川東遺跡の事例」『考古学ジャーナル』第678

SV1が一般的な住居とは異なる深い掘り込みを有することと一般的な住居として使用されたという矛盾が何ら説明されることなく繰り返されている。こうした記述を受けて特集号を編集した研究者は以下のように概括した。

「清水周の報告する東京都緑川東遺跡の事例は、深い掘り込みをもつ敷石遺構の中央部の敷石を抜き取り、大形石棒4本を、向きを揃えて並列して埋設したものである。」(谷口康浩201511月「総論 大形石棒の残され方-放棄時の状況と行為のパターン-」『考古学ジャーナル』第678号)

このように緑川東遺跡のSV1について一般的な住居とは異なるとされる「深い掘り込み」および「壁面の積み石」について幾度も言及されているにも関わらず、遺構中央部の敷石除去といった点から、一般的な住居の廃棄時に大形石棒を並置されたという「住居再利用説」が受容されていった。こうした状況を打開するために「様々な立場からなされる多様な議論の喚起」を目的として「石棒の出土範囲に敷石が認められないことが、なぜ住居廃棄時の石棒設置の状況証拠になるのか?」「確証が得られないとした敷石除去が、なぜほぼ明らかとされるのか?」といった十数点に上る疑問点と共にSV1の構築時に大形石棒が設置された可能性を提出した(五十嵐20165月「緑川東問題 -考古学的解釈の妥当性について-」『東京考古』第34号)。さらに「大形石棒の製作には膨大な労働力が投下されており、その設置には周到な計画性のもとになされたに違いない。SV1はそのための特殊な場であり、一般的な住居跡の再利用とはみなし難い」(五十嵐20171月「緑川東・廃棄時設置という隘路」『東京の遺跡』第107号)という考えを示した。
こうして緑川東問題 第3期(緑川東問題提出20165月から現在まで)では、当初はSV1中央部の敷石除去について言及することで「住居再利用説」に組していた研究者も、緑川東問題の提出を受けて微妙に見解を修正しつつある。
「東京都緑川東遺跡では、完形の大形石棒4本が、深い掘り込みをもつ敷石遺構の中央部に向きを揃えて並列して埋設された状態で発見された。敷石遺構の周縁部には柱穴と推定されるピットと周溝があることから上屋をもつ建物跡と推定されるが、同遺跡で見つかっている柄鏡形敷石住居とは掘り方の深さや平面形が異なる特殊な遺構である。4本の真下には、墓壙を彷彿とさせる細長い土坑(150×40cm)があり、それを覆って石棒と敷石が置かれている。」(谷口 康浩20173月『縄文時代の社会複雑化と儀礼祭祀』150頁)

SV1SVとした理由が重要である
調査者は考古誌が刊行される以前(第1期)では、一貫してSVとした理由として、1:炉や焼土が確認することができなかったこと、2:縁辺に複数段の積石があるという構造の2点を挙げていた。ところが報告者たちは、炉址の不在と石棒の存在をもって一般住居址の否定・敷石遺構名称の採用根拠としており、調査者が指摘した「複数段の積石」あるいは「石積みの壁」については周到に排除されていた。逆に「壁の積み石」については「不要なほど多量の礫が雑然と積み上げられていた」(16頁)として、否定的な評価がなされた。ここで表現された「不要」とは、果たしていったい何に対してのどのような「不要」なのだろうか? 穿った見方をすれば「不要」とは「住居再利用説」にとって「不要」なのではないかとすら思えてくる。
調査者が積極的に評価していた「積石」に対して、報告者たちが否定的な評価を下したのは、「積石」がSV1全体の評価に関わっていたからであろう。もしSV1を住居跡ではないと判断した根拠に壁面の積石が挙げられるとすれば、それは本来住居跡であったという「再利用説」にとって、当初の住居跡段階では積石は存在せず、廃絶時に大形石棒と同時に積石がなされたという遺構全体におよぶ改修という新たな問題を呼び込むことになる。ところが、実際にそうした痕跡は確認されなかった。だからSV1認定の根拠に、炉や焼土の不在はともかく、壁面の積石については慎重に排除されたのであろう。そしてその裏には、複数段の積石を有する敷石遺構は一般的な敷石住居跡としても決して特殊ではない、という理解が存在すると思われる。果たして複数段の積石を有するSV1のような「敷石住居」は一般的と言えるのだろうか? SV1の特殊性を否定して一般的な住居跡と考える人は、和田氏がSV1の発展的様相を示すとした小田野遺跡SI08も一般的な住居跡とするのだろうか? それともSI08は特殊な遺構とするが、SV1はそれとは異なる一般的な住居跡とするのだろうか? このことは、SV1が柄鏡形敷石住居の主体部であろうと張り出し部であろうと関係ないはずである。こうした疑問点について「住居再利用説」の立場の人びとは、きちんと応答する必要があるのではないか。

SV1の特殊性を指摘しつつ遺構中央部の敷石の除去を述べる人たちは、深刻な矛盾に直面している。なぜならSV1は住居ではない特殊な遺構としつつ、石棒設置以前は特殊ではない一般的な住居跡としているからである。一般的な縦穴住居が廃絶後にゴミ穴として再利用されても、その遺構を「ゴミ穴」とは呼ばないのではないか。それならばなぜ大形石棒を設置した場合にだけ「敷石住居」と呼ばずに「敷石遺構」とするのだろうか。

こうした矛盾を抱えた「住居再利用説」の背景には、大きく2つの考え方が作用しているように思われる。
第1に「廃屋儀礼」という考え方である。これは他の遺跡における大形石棒の出土事例の多くが遺構廃絶時の状況を示すことからSV1についても恐らくそうだろうというものである。
第2に「樹立神話」という考え方である。すなわち大形石棒は樹立させて使用したに違いない。だからSV1のように並置された状態は使用とは考えられないというものである。
こうした2つの考え方によって、「住居再利用説」が主張されることになったのではないか。今後はこうした未検証の前提ともいうべき考え方を一端白紙としたうえで、SV1という前代未聞の考古事象を私たちはどのように解釈すればいいのか、様々な観点から検討する必要がある。
そうした結果、冒頭で紹介した大形石棒を紹介するパンフレットの文言もいつの日にか多少の修正が必要となる時が来るのかも知れない。

タグ:緑川東問題
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