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『重監房跡の発掘調査』 [考古誌批評]

重監房資料館2016『国立療養所栗生楽泉園内 重監房跡の発掘調査』

「当時の「癩の予防智識」の普及啓発を担った主体は、他ならぬ癩予防協会であったが、その啓発行為が、「癩患者」を「周囲の人々から指弾」され、「家族の人々からも恐れられ」るような存在へと強力に誘導し、だからこそ「救済の機関」(療養所)を設けて直ちに癩患者を「収容する事目下急務中の急務」と述べられたわけである。そこに無癩県をめざした「民族浄化政策」「絶対隔離政策」の本質を垣間見ることができるが、なかでも「特別病室」に送致されるハンセン病患者は、「救済の機関」にすら置くことができないやっかい者であった。またそのような存在だからこそ酷い処遇を受けても仕方がない、自業自得であると、療養所管理者や世間・社会のみならず、送致事例によっては同じ入所者からも、そう思われていた節がある。」(黒尾 和久「重監房の沿革 -「特別病室」問題とは何か-」:104.)

「特別病室」とは、1938年に群馬県草津町の国立療養所栗生(くりう)楽泉園内に設置されたハンセン病患者専用の刑務所代用施設である。「病室」とは名ばかりで、実態は板張りの独房であった。8年半あまりの存続期間中に93人の患者が収監されて、23人が獄死している。4人に1人は生きて出ることが叶わなかった! 拘置者はハンセン病患者というだけで、起訴・論告・求刑・判決といった通常の手続きが一切省略されて、療養所所長に与えられた「懲戒検束権」という特権によって独房に放り込まれた。何故か? それは司法手続きに関わる関係者、警察官・検察官・裁判官・刑務官らの癩病に対する極度の嫌悪感に起因する。

こうした「負の遺産」ともいうべき施設跡地に対して当地に所在する重監房資料館における再現施設のためにデータ収集を目的とした発掘調査が2013年に行われた。重監房の建物基礎ばかりでなく、8戸の独房それぞれの便槽の中から、木箱・箸・木椀・下駄・ガラス瓶・眼鏡・地下足袋・乾電池・南京錠・煙管など様々な生活品が出土した。建物の設計図はおろか全体を映した写真すら存在しない中で、こうした遺構・部材・遺物と僅かに残されたニュース映画画像の断片を手掛かりに重監房の復原が緻密になされている。

意図的に図面・写真などの資料が残されなかった土地痕跡を、発掘という手法によって明らかにしていく。正に暗い闇に押し込められた悲惨なそして二度とあってはならないこの国の恥部を明らかにする重要な作業である。

「日本最古」とか「豪華絢爛」といった光輝く発見とは真逆の、だからこそ考古学という学問の果たすべき本当の役割が見事に示された事例である。

ところが、この発掘調査報告書は他の報告書類とは、若干異なる点がある。そしてその異なる点こそが、この調査自体の性格、そして現在の「日本考古学」あるいは埋蔵文化財行政の在り方を鮮やかに示している。それは現在の日本で発行されている発掘調査報告書において必ず巻末に付される「報告書抄録」というページがないことである。今回の重監房発掘調査は、おそらく文化財保護法に則った行政的な手続きを経ることなく実施されたのであろう。だから今回の調査地点も「周知の埋蔵文化財包蔵地」として登録されることはないのだろう。しかしそうした経緯は、報告書のどこにも記載されていない。

それは何故か? 単に調査対象が新しすぎるからというのは、理由にならない。
なぜなら近現代に属する<遺跡>についても、「地域において特に重要なものを対象とすることができる」と文化庁自身が1998年に指針を示しているのだから。
今回の「重監房」という発掘対象は「地域」どころか「国において特に重要なもの」である。だからこそ国家の意思として厚生労働省が特別病室(重監房)を負の遺産として後世に伝えることを目的として2014年に「重監房資料館」という組織を設置したのだ。そして今回の発掘調査の主体は、この国立の資料館なのである。
考古学という学問と埋蔵文化財という行政の相互関係が鋭く問われている。

「ハンセン病への偏見、患者への根強い差別意識とは、翻ってみれば、それは教育啓発の不足・不備そして誤りの問題に直結する。それは人を人として見ることができなかったために生じた誤りである。戦前の癩予防政策、癩予防協会の啓発手段の誤りを単に歴史的に指摘するだけではなく、戦後の民主憲法下において、医療従事者・療養所関係者のみならず、行政・司法・立法、教育・宗教、マスコミそして一般市民、それぞれの立ち位置で、どこで誤ったのか、誤りから何を学ぶのかを、自らの課題として受け止める営みを、今後も継続しなければならない。」(黒尾 和久:107.)
重監房で亡くなった23人の方のお名前は、全て明らかになっているのだろうか? 
そしてそれぞれいつどこでどのようにして亡くなったのかについても、明らかになっているのだろうか?
「療養所は、本来のあり方から見て、患者にとって病を癒しつつ生活をする場所であった。そのなかに、人々を拘束し取り締まる法制度が並存していたことは、不条理としか受け取れない。療養所の暗黒時代を織りなす「監房」の存在を無視して、社会の未来はありえない。建物のあるなしを問わず、たとえ時代が変わっても、この悲惨な事実があったことを忘れてはならないだろう。そのためにも、建物の保存、修復、再建を試みるのであれば、そこに投獄された人の声なき声に耳を傾け、跡地からにじみ出てくる痛恨の思いを、他者の心に記していく必要があるのではないか。そして、その建物を時代の技術に頼って変貌させてしまうのではなく、できるだけ周囲の環境も含め、当時の原形のまま留めおく大切さにも心を配ってほしいものである。」(崔 南龍(チェ・ナムヨン)2017『一枚の切符 -あるハンセン病者のいのちの綴り方-』みすず書房:75.)
「歴史を忘れ去ってはいけない。特にそれが直視することの辛い出来事であったならば、なおさら忘れようとしてはならない。なるほど、どのような出来事も忘れ去ることができるかもしれない。しかし、忘れ去られた悲しい事実は私たちの潜在意識の中にもぐり込み、絶え間のない不安、理由を忘れ去られた不安としてざわめき続ける。私たちは忘れないことによってこそ救われるのである。」(畑野 研太郎「はじめに」同書:9.)

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さいたまん

っていうか出土品は 遺失物届け出→文化財認定 しないの?
by さいたまん (2017-10-19 21:55) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

そうした記載は、「報告書」には一切見当たりませんでした。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-10-20 08:36) 

さいたまん

下記を見る限り資料館は包蔵地になっていない。
http://www2.wagmap.jp/pref-gunma/top/select.asp?dtp=86

資料館は国の機関だから、文化財保護法第九十七条。
ただし、重監房跡が「遺跡と認められるもの」かは分からない。
戦前に稼働していた工場の跡地が全部包蔵地になっていないから。

ただし、下記を見ると「出土遺物」と言っている。
http://sjpm.hansen-dis.jp/2016/06/visitors20160626-1/
わたしは、考古資料は(埋蔵)文化財と一致した集合でなくてもいいと思うけど、この点は矛盾するといえなくもない。
by さいたまん (2017-10-20 21:40) 

さいたまん

追加修正。
「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」第十八条 を根拠に、
文化財保護法によらない発掘は可能であろう。
by さいたまん (2017-10-20 21:58) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

詳細な根拠資料の提示有難うございます。本件について私はある所で「閣内不統一」と申しましたが、当該資料の取り扱いを巡って「地域において特に重要」と考えるか、考えないかその歴史的評価が明瞭に示される事案だと思います。そしてそのこと(取り扱われ方)をどのように評価するかという点において当事者だけでなく本件を取り巻く関係者(stakeholder)の立ち位置もまた示されることになります。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-10-21 03:58) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

もし当該地に関わる「発掘届」が提出されていたとして、それが受理されなかったとしたならば、「重監房跡」を「地域において特に重要なもの」と考えなかった県教委ひいては文化庁の行政判断は誤っていた、すくなくとも「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」の立法精神に反していたのではないかと考えます。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-10-21 05:06) 

さいたまん

わたしが示したのは、文化財保護法によらない、資料(埋蔵文化財にあらず)の発掘は、法的にも可能だということです。わたしは、それ以上の価値判断は、意図していません。
この事例の背後に、「地域」と「コミュニティ」との断層を見出して解釈することも可能ですが、軽々な憶測は排するべきだと思います。

by さいたまん (2017-10-23 19:38) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

近日中に関係者にお会いする予定ですので、私の憶測について確認したいと思います。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-10-23 21:43) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

事前の打ち合わせ段階で県から不受理が示唆されたので、届けは提出しませんでした(関係者談)。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-10-29 18:34) 

さいたまん

おっしゃっている「届け」というのは、文化財保護法第九十二条にかかわるものであり、第九十三条もしくは第九十四条にかかわるものではないと理解してよいですね。
なお、文化財であるかないかにかかわらず、埋蔵物を発見したならば、遺失物法第四条のもとにあると存じます。
by さいたまん (2017-11-03 17:15) 

さいたまん

補足です。
「発掘届」とおっしゃっているので、その文脈に則り、文化財保護法第九十二条から第九十五条の範囲内で、上記のコメントをしました。
わたしとしては、どうして、このケースが文化財保護法第九十六条もしくは第九十七条の「遺跡の発見」ではないのだろうか、個人的疑問を抱いています。
by さいたまん (2017-11-03 17:22) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

例えば『日吉台遺跡群蝮谷地区発掘調査報告書ー航空本部等地下壕関連遺構の調査ー』(慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室2011)における「報告書抄録」では市町村コードの記載はありますが、遺跡番号コードは「なし」とされています。
http://2nd-archaeology.blog.so-net.ne.jp/2011-09-15
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-11-03 17:48) 

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