SSブログ

朝鮮総督府1931・32『大正十三年度古蹟調査報告』 [考古誌批評]

朝鮮総督府1931・32『大正十三年度古蹟調査報告第一冊図版・本文』慶州金鈴塚飾履塚発掘調査報告(梅原 末治編1973『慶州金鈴塚飾履塚 -大正13年度古蹟調査報告-』国書刊行会として復刊)

1924年に調査した資料について、7年後に図版編、翌年に本文編が出版され、42年後に合冊となり復刊された。
85年前の日本人考古学者は、このような文章を書いていた。

「…いよいよ五月十日から作業に着手した。處が事実は豫想に反して、半壊と考へてゐた両古墳ともに、主要部をなす積石は地下に埋もれて殆んど全容を遺存し、人家の間にあつて其の採掘に多大の苦心を要するものがあり、中心に到達する二週間のうちに屡々歎聲を發せしめたが、而も普門里古墳の發掘に経験のある澤氏の土工上の剴切な處置が効を奏して、西古墳の深さ十尺を超へた地中から金冠塚で見たと同様な腰佩金具が見出され、ついで金冠、珠玉等を検出、更に無数の副葬品を獲ることゝなつて、其の労苦が十分に酬ひられ、引続いで東方の一基からも多数の遺物を発見して、両者の調査に四十餘日を費したとは云ひ乍ら、大正十年に於ける金冠塚と姉妹的な発見を遂げて、是等を学術上の見地から調査記録した事は、局に當つた者の永久に忘るべからざる快事として、兼てまた総督の期待に添ふものあるに哀心の愉悦を感じたところである。」(3-4.)

「朝鮮総督府嘱託」との肩書による梅原末治氏の文章である。
「哀心の愉悦」といった表現も今や死語であろう。

「是等人士の厚意乃至協力に頼つて廃滅に近かつた民家の裡の小墳丘から、世の注意を惹くに足る古新羅の遺寶を顕現して、こゝに其の正しい姿を傳へ得るに至つたことは私の大なる欣びであつて、それはまた當初調査の事を依嘱せられ、爾来常に整理の経過にも関心を持たれてゐた斉藤前総督の満足をも買ふことであらう。」(5.)

自らが所属する組織の長に対する過剰な持ち上げ、これもまた「時代的な制約」というものなのだろう。
しかしこうした宝探し的な「発見主義」の露骨な表明とまではいかなくとも、その心性は秘かにそして確実に現代の私たちにも共有されていることだろう。

「終戦後、進駐のアメリカの文化関係者の期待したそれへの日本協力が韓国進駐軍主脳の拒否する所となったが、一年間当時博物館の主任であった有光教一氏が引継の事務に当ると、直ちに行なわれた慶州の壷杵塚の発掘調査を指導した。然るに数年を経て、南北朝鮮間の激しい闘争により、新たに米中間の抗戦に進展するに及んで、形成(ママ)が急変した。苦闘の年を経て三十八度線を境に南北朝鮮の分立となったのであるが、南の韓国との平和条約の締結期に入ると、俄かに韓国側から既往の古蹟調査が半島の史蹟を破壊し、出土品を持去ったものとして、日本にある韓国の古文物の返還を強く要求して、完全に引継いだ夥しい古文物とその成果を無視されることになった。そして争乱後の依然たる治安の不安定に処る各地における著しい遺蹟の私掘に依る重要な新出土品の追究調査など一切行うことなく、駐在のアメリカ軍の示唆に依る各地の大学と博物館との設置によって、任意の小規模な遺蹟を発掘と、また同国並にユネスコの援助の下に行なわれた新羅一統時代の古墓、仏寺仏塔等の修理に依る新たな出土品を重視する傾向を示した。其の国立博物館にあっても、もと李王家博物館の豊富な陶磁器の蒐集品を主に、古代諸文物にあっては、既往の調査出土品に館長の志向する遺跡の出土品と、上記の百済後半の仏教品を陳列、以て半島の古文物が新たに開明せられたとしたのである。そして、またたま(ママ)一昨年百済古代の都の公州に於いて、新たに武寧王陵が見出されて、六百余点の副葬品の出土が当代の文物を始めて示す。そのために京城に新たに壮大な国立博物館を建設特にこれ等を展示し、おりからの観光ブームに依る多数の日本人を主とした外客に供覧、中でも多くの我が若い学徒は、右の新出土品に特に関心をもち、むしろ、既往四十年間に亙る如上の調査など殆んど顧みない状況にあるのは、親しく既往の調査に当った一人として、慨嘆の念を禁じ得ないものがある。」(梅原 末治1973「復刊のことば」)

自分は良いことをしたと信じ込んでいるのだから、文化財返還など思いもよらないことであり、逆になぜ彼らから感謝されないのか理解できないという心境も、植民地主義者としては当然の反応なのだろう。

「梅原が戦後訪韓した際、彼は韓国人が近代国家を建設できる能力の持主であるとは信じることができず、近代建築や道路や文化財の整備状況を見せられても、これらはすべて米軍の仕事にちがいないと言い張り、韓国人の民族感情を刺激した。」(穴沢 咊光1994「梅原末治論」『考古学京都学派』:295.)

「我々日本の考古学研究者は、無意識の中に、梅原末治が作り出した大伝統の中に生き、良い意味でも悪い意味でも彼の遺産にドップリと浸かっている。梅原はすでに亡いが、我々日本の考古学研究者一人一人のアタマの中には無数の小さな梅原が生きている。」(同:288.)

自らの中に潜む「小さな梅原」と対峙する2016年の夏。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 2

アマチュア

梅原の記述は衝撃的。帝国主義は客観的な視点を必要とする大学教授でさえ、ナショナリズムを感じ取る感覚を失わせるのか。梅原にとって自分の業績は、よその国を蹂躙して得た結果という認識は終生持たなかったと推測する。有光さんや斉藤さんはどうだったのか。気になる。
by アマチュア (2018-08-17 05:13) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

お隣の人類学方面では「超越的」と「超越論的」の違いといった事柄が延々と述べられているのですが、こちら「考古学の思想」状況は果たしてどうでしょうか? 「既往40年間の労苦」はどれだけ清算出来ているでしょうか? 若い方がたには、SRとNMの違いぐらいは是非押さえておいて頂きたいと切に願っています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2018-08-19 05:55) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0