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保坂2014「狩猟具の過剰製作」 [論文時評]

保坂 康夫 2014 「狩猟具の過剰製作 -使用可能な二側縁加工ナイフ形石器放置の贈与論的説明-」『山梨考古学論集Ⅶ』山梨県考古学協会:1-20.

アンビシャス(意欲的)でエキサイティング(刺激的)、そして何よりも第2考古学的な好論である。
なぜ<遺跡>から完形の石器が出土するのか?
単純だが、容易に答えることができない奥深い問題である。
この問題に、正面から挑んでいる。

皆さんも経験がないだろうか? 思わぬ所から完全な形を留めた石器が単独であるいは数点まとまって出土することが。それらが珍しくて貴重な<もの>だったら、その感激もひとしおである。
ちょうど一年前の夏にも、そのような経験をした。こんな所から?という場所で、作業員の方が泥だらけの大形石刃を手にして、ニコニコ笑っていた。その笑顔が、妙に脳裏に焼き付いている。

「狩猟具が使い尽くされずに、使用可能な状態で居住地に放置されている現実を認識しなければならないのである。当然、狩猟を中心とする生活の中で、その必要が満たされた上での放置と考えざるを得ない。つまり、狩猟具は必要以上の量が製作され、余った使用可能な狩猟具が放置され、発掘調査によって出土していると考えられる。狩猟具は過剰製作されていると認識されるのである。」(1.)

「使用可能な石器の放置」から「石器の必要以上の過剰製作」そして「贈与論的説明」へと、論は進んでいく。
しかしこの前提部分(使用可能な石器の放置)について、筆者とは異なる見方もできるのではないだろうか。

使えるのに、使わない。
4年前にも「形の完全性と機能の充足性」と題して、考えたことがあった【2010-5-13】。

狩猟具は社会的に使い尽くされて、実利的には使用可能でも社会的には使用不可能な状態で居住地に放置されている。必要な量が必要なだけ製作されている。壊れていても壊れていなくても、新たな石器が補給されなければ、使い続けざるを得ない。新たな石器が補給されれば、壊れていても壊れていなくても放置される。狩猟具は、必要なだけ製作されていると認識されるのである。

「使用可能な個体としてここでは、i 完形品と、ii 一部欠損品の2種類を取り上げることとする。ii については、全体の体積(実際の観察は、報告書の実測図から行ったので、平面図面積から判断した)からして1割程度以下の欠損があり、再加工によって狩猟具としての機能を回復するであろう個体を扱う。」(2.)

問題は、「使用可能な個体」の「使用」という言葉の意味である。
当然のことながら実利的(筆者の言う「効率性の原理」(7.))だけでは、ないだろう。
筆者は、それを「験担ぎ」という言葉で説明する。
「一度狩猟場に出た狩猟具は再度使用しないといった、験担ぎなどの精神的な処置で、出現してくるとの考え方である。」(12.)

それでは、なぜ「1割程度以下の欠損」については再加工を施して完形品にしないのだろうか?
1.1割程度以下の欠損があっても、使用に差し支えない(いまだ使用可能である)から修復しない。
2.1割程度以下の欠損品は、使用に差し支える(もはや使用不可能である)から修復しない。
両論とも、成立可能である。折損面における使用痕跡の有無などの検証が必要であるが、完形品の存在などから後者の可能性が高いのではないか。

抜き刷りを頂いた後に、筆者とも意見を交わす機会が与えられたのだが、筆者が「生活の単位的痕跡というべき母岩資料」(10.)と高く評価する考古学的な資料操作について、改めてお互いの隔たりを確認することとなった。
ここに、母岩識別擁護派が乗り越えなくてはならない問題を提出する。

* 同一母岩から剥離された剥片が2枚あり、一つはナイフ形石器に加工されている。このナイフ形石器と未加工の剥片が<遺跡>に持ち込まれて、剥片に対して調整が施されてナイフ形石器に加工される。この際に生じた砕片と持ち込まれたナイフ形石器を残して、人々は<遺跡>で製作したナイフ形石器を携えて立ち去る。
当然のことながら、<遺跡>から出土するナイフ形石器と砕片とは接合しない。しかし同一母岩である。
さて同一母岩識別研究によって、このナイフ形石器がその場で製作されたか、それとも搬入されたかを判別できるだろうか? このナイフ形石器は「遺跡単独母岩狩猟具」(6.)なのだろうか、それとも「母岩資料共伴狩猟具」(7.)なのだろうか?

同じようなことは、剥片を素材とした石核(剥片石核)による剥片剥離について、あるいは分割された礫塊それぞれで剥片剥離がなされた場合について言いうるだろう。
あちこちで、様々な場面で、こうしたことがなされていただろう。

砂川に端を発する母岩識別研究の根幹には、「一母岩一石核」という暗黙の前提がある。
すなわち母岩識別研究は、「一母岩複数石核」という普遍的な事象に対応できないのである。
これは、考古学的な方法論として致命的な欠陥である。

これがおよそ四半世紀にわたる苦闘の末にたどり着いた結論である。
自分でも意外な、そして驚くべき結論である。

「贈与交換のばあいには、これ(単純商品交換:引用者挿入)とまったく対蹠的な逆転写像が写しだされる。商品では交換されるのは違うモノ(unlike-for-unlike)だったが、ここではまず同じモノ(like-for-like)同士が交換されるからにほかならない。「単純商品交換では、ある所与の一時点で異種物間の等価関係が樹立されるが、これにたいして贈与交換は、異時点での同種物間の均等交換関係を樹立する」(Gregory, 1982, p.47)。似たモノを似たモノとなぜ交換する必要があるかといえば、目的がモノを手段として人と人との関係の樹立にあるからにほかならない。そしてこの友好的な人格関係を永続させようとすれば、Aの贈与にたいしてBは即時の等価、等量、等質の反対贈与をおこなってはならない。というのも、AB両項のあいだに、いわば一定の電位差、水位差、温度差といった位置エネルギーの差異がなければ、いわゆる流束をおこす力がなくなって<熱的死>という平衡状態にたっし、関係そのものが廃棄されてしまうからである。(cf., リーチ,1985, p.198)。」(山内 昶1992『経済人類学の対位法』世界書院:224.) 

過剰性を経由しなくても、贈与論的な説明は可能だろう。

筆者には、学生時代からお世話になった。
本論に対する素朴な読後感に対しても、丁寧な応答を頂き、懸案の課題を明確に認識する契機となった。改めて感謝したい。


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