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ベロス2006『フチボウ』 [全方位書評]

アレックス・ベロス(土屋 晃・対馬 妙訳) 2006 『フチボウ -美しきブラジルの蹴球-』ソニー・マガジンズ(Alex Bellos 2002 FUTEBOL: THE BRAZILIAN WAY OF LIFE)

「こちらへ着いてすぐのころ、ブラジル代表の試合を観戦した。場所はブラジル・サッカーの、ということはつまり、世界のサッカーの聖地であるマラカナン・スタジアムだ。選手がピッチに登場すると観客は飛びあがって声援を送る。爆竹に太鼓にシンコペートする応援歌が交錯した雷鳴のような騒々しさ。いままで頭で理解していたことが現実になった。ブラジル・サッカーという浪漫は、”美しいゲーム”と表現するだけでは到底足りない。われわれがブラジルを愛するのはそのスペクタクルにある。底抜けに陽気なファンのせいもある。スター選手たちを、さながら友人のようにファーストネームで呼ぶからでもある。代表チームが理想郷を思わせる人種のハーモニーを奏でているせいもある。ジャージーが伝統のゴールデン・イエローだからでもある。われわれがブラジルを愛するのは、彼らが”ブラズィーーーーウ”であるからなのだ。」(7.)

サッカーの母国から来た筆者が、サッカーの王国での見聞をまとめたエスノグラフィー(民族誌)である。
今ほど、本書を紹介するのに適した時期はないだろう。

「英国には1914年-1918年、1939年-1945年の二度の世界大戦を境にした二十世紀の時代区分が存在する。ブラジルは現代史をワールドカップでもって見ていく。というのも、ブラジルがどんなときより国家を意識するのはワールドカップ期間中なのだ。全大会に出場している唯一の国だからこそ、四年ごとに国のありようをたどっていくことも可能となる。
ワールドカップが順調に開催されるようになった最初の年ということで、1950年は現代の国際サッカー時代の嚆矢とされる。切りのいい数字でもあり、これが揺るぎない基準点である。そのことが何を意味するかといえば、代表チームがいかに活躍しようと現代史の第一歩は敗北であり、マラカナンでどれだけ勝利を積みあげようと、国家の屈辱ではじまった歴史は覆しようがないという事実なのである。」(82.)

2014年6月13日、日本時間早朝、マルセロのオウン・ゴールに凍りついた。
マラカナンの悲劇、1950年7月16日。
半世紀たっても、悲劇の立役者となったウルグアイの得点者は悪夢に苛まれている。

「だが彼は知っている。ウルグアイとはちがって、ブラジルがけっして彼を忘れないのだということを。2000年、リオに招かれたギジャは、空港の税関でパスポートを出した。
「審査の娘は二十三、四だった」と彼は言う。
「彼女はおれのパスポートを受け取ると、じっと見つめるわけだ。
おれは訊いたよ。『何か問題でも?』
彼女は答えた。『あなたがギジャ?』
『そうだよ』と答えながら驚いたね。なにしろ若い娘だ。
『でも、1950年はもう大昔じゃないか』と言ってやった。
すると彼女は胸に手をあててこう言ったよ。
『ブラジルでは毎日、心のなかであの日のことを感じているの』」(108.)

「ドーハの悲劇」などといったレベルではないのだ。

「ヴァスコ・ダ・ガマは、その昔、ブラジル・サッカー史上最も有名な呪いに苦しめられたことがある。それも二度。事の起こりはアルビーニャと蛙の噂だった。ひょっとすると、アルビーニャは蛙などもっていなかったかもしれないし、ヴァスコのホームスタジアム、サン・ジャヌアリオのピッチに蛙を埋めてなどいなかったのかもしれない。が、そういうこととは無関係に、アルビーニャの蛙の呪いは存在し、真剣に取り沙汰された。
1937年12月の雨の夜、ヴァスコはアンダライという格下のチームと対戦する予定になっていた。ところが、ヴァスコの選手を乗せて試合会場に向かっていたバスがゴミ収集車に追突し、その影響で到着が遅れた。それでもアンダライの選手は寒さのなか、びしょ濡れになって相手を待ち続けた。不戦勝を求めることもできたが、そうはせずヴァスコの選手の到着を待って試合をすることに同意したのだ。そんなスポーツマンシップの見返りとしてアンダライがヴァスコに期待したのは、自分たちの善意を踏みにじらないことだけだった。
だがゲームがはじまると、そんな紳士協定はあっという間に忘れ去られた。ヴァスコは次々にゴールを叩き込んだ。ハーフタイムまでに5点を挙げた。90分を戦い終えたときのスコアは12-0。アンダライのベンチにいたアルビーニャは、芝の上にひざまずくと、両手を組み空を見上げて言った。「神様、もしそこにおられるなら、12年間、ヴァスコを選手権で優勝させないでください」。一ゴールにつき一年という計算だった。
アルビーニャはサン・ジャヌアリオの芝の下に蛙を埋めて呪いをかけた、という噂が広まった。ブラジルでは雨の守り神である蛙が呪文を伝える手段としてしばしば使われる。ヴァスコの理事たちは笑った。が、数年後にはその笑顔も消えていた。アルビーニャが呪いをかけてからというもの、ヴァスコは選手権での優勝に見放されていた。さらに悪いことには1943年、リオ最強のチームであるはずのヴァスコが、タイトルの射程圏内にいながらフラメンゴに6-2で敗れた。かつてヴァスコでプレイしていたある男の助言を求めることになった。霊を呼び出す声をもつというその男は、杖を手にピッチを歩き回った。その杖を使えば、蛙あるいは蛙の死骸が埋めてある場所を特定できる、と彼は言った。蛙は見つからなかった。
翌年もヴァスコはすばらしい選手を擁していた。だが選手権のタイトルはまたしてもフラメンゴにもっていかれた。もはや選択肢はひとつしかなかった。トラクターを入れてピッチ全体を掘り起こすことになった。それでも蛙は見つからなかった。ヴァスコのファンは計算をはじめた。その呪いが仮に1937年に始まっているとすれば、1949年まで続くことになる。しかし最後に優勝した1934年に始まっているとすれば、1946年で解けることになる。ヴァスコの理事たちは、アルビーニャに懇願した。頼むから蛙を埋めた場所を教えてくれ。アルビーニャは蛙を埋めた事実はないし、呪いは解けると約束した。1945年、ヴァスコは無敗で優勝した。」(263-4.)

日本でも同じようなことが。
1985年阪神タイガース優勝に歓喜したファンが道頓堀に投げ込んだケンタッキー・フライドチキンの店頭に立つカーネル・サンダースの呪いである。

「1976年、(コリンチャンス会長)ヴィンセンチ・マテウスは、サンパウロ州選手権ですでに22年間にわたって優勝から見放されていたコリンチャンスのために、パルキ・サン・ジョルジェでマクンバを行なうことに同意した。儀式をやることのどこに問題がある? 事態はもうこれ以上悪くなりようがなかったのだ。召集された魂の救急隊はオールスターメンバーだった。オリンダのエドゥ師や、当時はまだ無名だった若きミラニウソン・カルヴァーリョ・サントス-またの名を二ウソン師―もいた。聖なる男たちはスコップで芝を掘り起こし、人間の歯と大腿骨、そして蛙を発見した。蛙! その翌年、コリンチャンスは優勝した。」(274.)

「パウル」とかいう名前のタコに優勝占いをさせるのも、似たようなものである。

「私たちはあまたの顔としぐさをもつ人間だ。あらゆるものに対し、あらゆる事実や可能性に対し、自己の歴史を保とうとする人間だ。その楽天的な性質で、自然の驚異をうまく利用することができる如才なく幸福な人間だ。周囲のすべてを愛し、人生の一分一秒から英知を得るすべを心得た人間だ。”フチボウ”を愛する人間だ。
フチボウとは自発性と洞察力と、贅沢と自由と、そして思うにダンスと同じく、私たちの最も原始的なゲノムの一部から出来上がったスポーツである。だがフチボウはまたダンスの一種でもあるべきなのだ。平和のためのものとして。」(ソクラテス・フラジレイロ「序文」:4.)

平和のためのフチボウ。
イラクの難民のために。
シリアの難民のために。
ウクライナの難民のために。


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