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好井2007『差別原論』 [全方位書評]

好井 裕明 2007 『差別原論 -<わたし>のなかの権力とつきあう-』平凡社新書367

「ところで、私が、“差別を確かめ、糾す” という営みの奥深さを痛感した体験がある。それはある事実確認会での出来事だった。詳細はすでに記憶の彼方であるが、いくつかの情景は、今も鮮明に思い出すことができる。大学院生の頃、お寺での部落差別事件をめぐり、ある確認会に参加する(というか後ろで見ることができる)機会があった。 (中略)
事実確認のやりとりを中心に進める人物は、丁寧にかつ真摯に、ときにユーモアを交えながら、受ける側に座っている人々に語りかけていた。しかし、受ける側の答えや答え方が、いかにも誠実ではなく、のらりくらりという感じだった。確認する側に座っていた多くの人々は、おそらくそうした相手の対応に苛立ちを感じていたはずだ。確認する側の後ろに座り、見ていた私も同じように苛立っていたからだ。
そのうち、苛立ちが昂じてきたのか、やりとりを聞いていた一人が 「ちゃんと答えんか、くそ坊主が」 と罵声を浴びせたのである。
その瞬間、他の何人かも同じような野次を飛ばしていたと思う。私も 「これでは、大きな声の一つもあげたくなるわなぁ」 と思った瞬間、それまでお寺からの参加者に向かって諄々と語っていた確認会の中心となる人物が振り返ったのである。

「くそ坊主とは、なにごとか!」 と野次を飛ばした人々を大声で叱り、厳しく批判し始めたのだ。私は一瞬、何が起こったのか、と驚いたのである。 (中略)
確認、糾弾するという営みは、単に差別した人へ怒りの感情をぶちまけることではないし、差別された痛みを罵声や野次で昇華させることでもない。「ひと」 として差別という出来事をどのように理解すべきなのか、差別に対抗して生きていくとはどのようなことなのか、などが語られ、被差別の立場にある人々もまた、解放運動を実践し、差別と向き合うことのなかで 「ひと」 として変革していくことが必須であると。」(72-74.)

ただ正義を振りかざすのではなく、共に痛みを分かち合い共に成長すること。
それには、いつ自分も同じ過ちを犯してしまうのではないかという恐れ、自らの奥深くに抱えている地雷のようなものの存在(それをある人々は 「原罪」 といい、筆者は 「自分のなかの権力」 という)に対して恐れを抱きながら生きることである。

「<差別を隠し、見えなくさせる知> が充満している日常で、私たちは、思わず知らずある人や集団、現実を差別してしまう危険性があるからだ。差別なんか、私は絶対にしないと断言できる人がいるだろうか。まずいないだろうと思う。とすれば、私たちが差別してしまう “瞬間” がとても大切なのである。この瞬間に気づき、なかば意識しながら、この瞬間と出会おうとすることで、私たちは自らが生きている日常で、多様な他者との繋がりのありようを点検し、これまでの日常を、“新たな日常” として、つくりかえていける入り口に立てるからだ。」(69.)

イスラム諸国はケンカばかりしているとか、風俗産業を活用しろとか、こんなことはいくら何でも言わないだろうと思っている自分が、ほんのささいなことで 「イラッ」 と心が波立つ、そこに同じような心的構造が垣間見えるといったことがないと誰が断言できようか。
差別を根絶すべきものとして遠ざけるのではなく、根絶できないものとして意識して向き合う。

「そして、大切なことがある。瞬間を見抜き、瞬間に抗うことは、なにも差別的な言動をされた側だけの問題ではないということだ。自らのなかで息づいている差別的な常識に影響を受け、思わず差別してしまう瞬間、自分でそのことに気づき、瞬間に抗うことこそ重要であり、そうした身体やこころ、姿勢を普段からどのようにつくりあげていけばいいのかが差別の日常を生きる基本なのである。」(134.)

思わず目に留まった、耳に残った言葉がある。スルーしようと思えば、いくらでも出来る。私が言わなくても、誰かそれに相応しい人が指摘するだろう。あえて言わなくてもいいことをわざわざ言って、人間関係を難しくするのは、損だよね。
多くの(日本)人は、こうした雰囲気を肌身に感じながら、成長していく。

「私は、普段から “普通でありたくない” “なんとかして自分を普通からずらしていきたい” と思っている。つまり “普通でない人間” になりたいわけだ。また、なにをバカなことを言いだすのかと思われるかもしれない。しかし “普通でない人間” といっても、まったくの “変わり者” になるのだと宣言しているのではない。それは “普通の世界” のなかに “息づいている” さまざまな差別や差別の兆しにできるだけ気づいて、それらと向き合い、自分の存在を少しでも “変え続けたい” という思いなのだ。」(180-181.)

「変わってるね」という言葉は、私にとっての賛辞(褒め言葉)である。
部落、障碍者、人種、エイズ、ホームレス、少数民族、私生児、自死、性的マイノリティ、学歴、容姿、セクハラ、いじめ、スクールカースト…だけではない、私たちの身の回りにある無数の差別、例えば日常の発掘現場での差別、権威主義的な学会にはびこる差別。
再稼働推進も文化財返還問題も、その奥底にある要因を辿って行けば、こうした事柄に行き当たるだろう。
そうした問題から目を逸らさずに、どのように向き合っていくのか、そのことが問われている。

「でも、どのようにすれば “生きる手がかり” として、確実な差別と出会うことができるのだろうか。これだ、という明快な答えは今、ない。ただ今一度確認しておきたいことがある。それは “ 差別する(かもしれない)わたし” の姿を 「いま、ここ」 で素直に認め、評価すること、そして 「問題」 として整理された差別をめぐる世の中の知識に囚われることなく、できる限り 「わたし」 を開け広げること、たとえば、“差別する私” の姿に向けて 「いま、ここ」 で語られる他の人々の批判的な語りを “風” として受け止め、“寒さ” “暖かさ” “うっとうしさ” など、そこで感じ取る感触や情緒に素直に反応すること、ではないだろうか。」(200.)

単に知識としてではなく、現場で自分が見聞きしたこと、体験したことをもとに、普段何気なく見過ごされている問題を、誰もが当たり前としている事柄に潜む問題を明らかにしていくこと。
ある現場で、見ていて本当に危なっかしい高齢の作業員の方がいた。誰もが足手まといといった感じだった。しかしそうした人を邪険にすることなく、何事もその人を基準に考えること。その人が何時の日か、姿をみせなくなった。今でも、心に残っている。

「“差別するわたし” の姿をいくら丹念に反省してもそれだけで意味はない。なるほど、「わたし」 の暮らしのここを変えれば、以前に比べて、他のひととこんなにも豊かに繋がることができるのか、と実感し、次の現在で 「わたし」 を少しずつ変えてみる。
“生きる手がかり” として差別を考え、活用していくきっかけは、そんな営みをする自分を心地よく感じるかにかかっているのではないか。
淡々と 「わたし」 を見直し、「わたし」 をつくりかえ続ける。その営みが差別を考え、差別を “意味なきもの” にしていく原点であり、“ちから” なのである。」(201.)


タグ:差別
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