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山路2006『近代日本の海外学術調査』 [全方位書評]

山路 勝彦 2006 『近代日本の海外学術調査』日本史リブレット64、山川出版社

「本書は、こうした植民地官吏の活動にも配慮しながら、明治・大正・昭和にわたって植民地帝国を生きてきた日本の人類学者が、植民地を舞台にどのような学的営みをしてきたのか検証する試みである。結果的にいえば、ある意味では戦前期の海外調査とは人類学者の植民地体験にかかわる事柄にほかならなかった。それだけ、戦前期の海外調査は植民地主義との関わりを抜きにしては語りえないことであった。この植民地主義との関わりで人類学者の営みを論じてみようとするのが、本書のもくろみである。」(4.)

民博での共同研究会「日本人類学史の研究」の成果論文集(山路勝彦編2011『日本の人類学 -植民地主義、異文化研究、学術調査の歴史-』関西学院大学出版会)の言わばダイジェスト版である。

侵略でない植民地は、有り得ない。
故に、植民地における発掘調査は侵略考古学以外では有り得ない。

「大谷の中国への評価はきわめて厳しい。当時の中国は、排日運動が起こるとともに、政治的に腐敗が進行し、軍閥が横行する混乱期にあった。それを実感した大谷光端は、「中華は中禍」とまでこきおろしている。それに対して、あらたな誕生をみた満洲国には将来への明るい大義をみいだそうとしていた。大方の読者は、現代の視点から、この大谷の言動と西域探検の業績とのあいだには大きな裂け目がある、と感じてしまうかも知れない。だからといって、西域探検で豊かな仏教美術の存在を明るみにした大谷の貢献が無に帰すなどとは、とうていありえないことである。」(17.)

「大きな裂け目がある」と感じない、感じてしまわない私などは、「大方の読者」ではない少数派ということ「かも知れない。」
そして「大谷の貢献が無に帰す」とも思わないが、思うのは大谷コレクションの現在の状況である。これらが適切に扱われない限り、大谷が私たちにもたらした負の遺産が解消することは、「とうていありえないことである。」

「今や満洲事変から北支事変以後俄かに我々学者の研究も非常なる便宜を与えらるる事となり、昔三年を要したものが今日では数ヶ月以内で十分の調査が出来る様になった。全く皇軍の有りがたき賜と感謝すると共に、尚一層研究の上に懸命の御奉公を尽したいと希望して居る。」(鳥居龍蔵1939「教育顧問として蒙古に行った頃」『教育』7巻4号:555.)(52.)
「たしかに、鳥居は最初から軍国主義の使命を果たそうと思ってシベリア研究をしていたわけではなかった。鳥居には学問へのひたむきさがあった。しかしながら、どこまでいっても鳥居には一つの雰囲気がついてまわる。そこには、幼少期の一途な好事家が、老いても無邪気なままの好事家であったという声がこだましている。」(51.)

想起するのは、「白骨を踏み越へ」て土器片を採集する考古学者の姿である(【2007-03-19】参照)。
先人の業績を評価する際に重要なのは、その先人の負の側面をどれだけ見据えることができるかである(鳥居龍蔵を語る会2011『鳥居龍蔵研究』第1号参照)。

「馬オロチョンのアヘン吸引は、狩猟後の疲労を癒したり、冬の寒さをしのいだりするために、当時、かなり蔓延していたようである。これに目をつけた泉靖一は、土産としてアヘンを持参すれば喜ばれるとして、軍から分与してもらい、調査の際に持ち込んだことがある。これをもとに、韓国の人類学者、全京秀のように、泉靖一の調査には倫理観が欠如しているとして、調査者としての素質を非難することは可能である。しかしながら、この批判は正鵠をえているにしても、倫理の問題に還元してしまえば、問題が残る。泉のアヘン贈与の問題は個人の倫理観の次元にとどまらず、野外調査の方法論という大きな枠組みで検討すべき課題を考えさせるからである。」(100.)

「非難することは可能である」が、「正鵠をえているにしても」「問題が残る」とは、もってまわった、歯切れの悪い、理解しにくい文章である。軍から貰ったアヘンを土産物として先住民に与えることが、調査者個人の倫理的問題にとどまらず、「野外調査の方法論」として「検討すべき課題」であるとは、どのような意味なのだろうか? 方法論以前の人間としての問題ではないのか?
1937年になされた原報告での当該箇所が、1972年に刊行された著作集では、何の断りもなく改竄されているとしたら、なおさらである(全2005については、【2007-10-12】論文時評を参照のこと)。

「明治以来、日本の人類学的学術調査はおもに植民地を舞台に展開してきた。その研究史を考えるとき、植民地主義との関係は切実である。実際に植民地行政にかかわった人類学者は多数というわけではなく、むしろ多くは純学術的調査に精力をそそいできた。だからといって、学術研究がはらむ権力性の問題には必ずしも自覚的であったわけではない。このような反省が広く日本の学会で議論されるようになったのは、1990年代にいたってのことである。(中略) 植民地主義と人類学調査の関連性について、一層の省察が必要とされる由縁である。」(106.)

戦時期植民地における日本人考古学者の発掘調査の「権力性の問題」については、「日本考古学」は1990年代はおろか2010年代にいたってもいまだに「自覚的であったわけではない。」 それは、日本考古学協会の2013年における議案第143号(【2013-05-22】)がはらむ「権力性の問題に自覚的であったわけではない」ことに示されている。

本書に内在する問題性については、以下に的確に指摘されている。
「だがわれわれが問わなければならないのは、学問研究における調査主体と調査対象との関係ではなく、日本の植民地統治下で日本軍の委託を受けて調査研究する「調査者」が「被調査者」に向けるまなざしである。つまりここで問われているのは、植民者と被植民者、統治者と被統治者との関係にほかならない。このまなざしには、「調査対象」を我がものとして支配=領有する実践の論理が貫かれているのであり、「純学問的で写実主義的な」まなざしというかたちをとって植民者と被植民者の関係が組織されていると言えよう。」(斉藤日出治2013「海南島における日本人の「学術調査研究」と植民地責任」『否定と肯定の文脈』近畿大学日本文化研究所:90.)

戦時期植民地で発掘をした考古学者の植民地住民に向けるまなざし。
戦時期植民地で活躍した考古学者に対する現在の私たちのまなざし。
戦時期植民地からもたらされ日本各地に収蔵されている考古資料に対する私たちのまなざし。
戦時期植民地からもたらされ日本各地に収蔵されている考古資料が抱える問題について提起する声に対する私たちのまなざし。


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