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相馬2010「考古学史における差別と支配のボキャブラリー」 [論文時評]

相馬 拓也 2010 「考古学史における差別と支配のボキャブラリー -アイヌの近代をめぐる考古学とコロニアリズムの前線から-」『比較考古学の新地平』同成社:617-629.

「(前略)「土俗」とはいわゆる「土人」と称されていた、独自の狩猟採集社会の習慣や文化全般を指し示す、「土人の俗」として再定義される。この「土俗」という表現は、日本や欧米の文化・社会を対象に用いられた「民俗」や「風俗」とは意識的に区別され、ふたつの表現がひとつの社会・文化に混合して用いられることはなかった。つまり「土俗」と「民俗」とは、社会・文化の事象を相対的に示す同意語でありながら、それぞれの用語が適応される対象社会によって、2つのボキャブラリーのあいだには、「近代」の評価基準にもとづく一定の高低差が存在していたのである。」(620.)

ある言葉が含み持つニュアンスに対して危惧を示したのは、今からもう15年も前のことになる。

「「土俗」という用語に「蛮民の風俗」(三宅米吉)というニュアンスが含まれていないかという疑念は、用語のたどった経緯を見ても未だ払拭されえない(安斎正人「土俗考古学の系譜」『先史考古学論集』5)。渡辺 仁の先取権を認め「日本的な土俗性」の発現を仮定する場合には「各土地土地の風俗といった語感のある「土俗」が馴染む」(安斎正人『現代考古学』同成社、181頁)としても、現状においては「土地の人」という意味の語彙が差別語となりうることから、何らかの配慮が必要である(黒田悦子「語彙の使用法の問題」『民族学研究』57-1、1992)。」(五十嵐1997「日本・考古・一」『史学雑誌 1996年の歴史学界 -回顧と展望-』106-5:14.)

すぐさま応答があった。
「ところで、「土俗」を「土人」などと同様に差別語だと誤解する人がいるかもしれない。人類学・民族学という学問が「野蛮人・未開人」を調査対象として形成されてきたという意味では、土俗学を唱え実践した明治期の学者たちの意識の中に差別観が内包されていたことは否定できない。しかし今日において、自覚的な人類学者が自らの学問のそのような歴史的負の遺産を批判的に克服しようとしている点は、十分に認識しておいてよいことである。考古学者においても同様であることは、ポスト・プロセス考古学が雄弁に語っている。本来、無色の「土俗」が、使い方によっては差別的色彩を帯びることがあるであろう。「蛮民の風」といった例である。言葉自体というよりも、私たちの偏見や固定観念に発する見方・考え方が問題をはらむのである。そういうわけで、この語の歴史的過程を自覚しつつも、日本考古学のコンテクストにおいては、私自身も「土俗考古学」の語を用いている次第である。」(安斎正人1998「はしがき」『縄文式生活構造 -土俗考古学からのアプローチ-』同成社:iii.)

使用者が自覚的であれば問題なしとするロジックである。

「否定的にカテゴリー化された「土俗」というボキャブラリーの使用と認識からは、すでに100年以上が経過している。しかし1980年代前半には渡辺仁によって「土俗考古学」と命名された民族考古学の手法が提唱されている。専門家のあいだではこれを期にして、日本の民族考古学の本格的な体系化が芽生えたとされている。しかしそこで用いられた「土俗」の意味合いが歴史的に示す、コロニアルで否定的な文脈があえて省みられることはなかったといえる。さらにその当初の手法も、明治期に行われた民族誌的対比の原理を再訪し、情報量で補った類推という手法であった。「土人」と「土俗」という表現は、アイヌや狩猟採集民を「取り残された」存在として一方通行の表象を創り上げ、石器時代という時間のなかへの固定化を促した支配のボキャブラリーである。考古学による「土人」や「土俗」の設定とは、過去があらかじめ「未開性」や「野蛮性」の象徴的な物語であるかのごとく運命づけられた、一種の多次元的虚構(メタフィクション)でもあったといえる。」(622.)

「コロニアルで否定的な文脈」が省みられる機会はあったにも関わらず、あえて生かされることはなかったと言うべきであろうか。

ついでに、別の文献からもう一つ。
「考えてみるまでも無く「土俗考古学」の系譜は植民地をフィールドとすることが多く、鳥居龍造、鹿野忠雄などが好例である。「土俗学」は今日的には用語として定着しており差別的意味合いはないとしているが、それは差別される側の発言ではなく、その用語を使って差別する側の発言である。かつて平野義太郎が「一般に原住民を「土人」と呼ぶことは中国人を「支那人」「チャンコロ」と呼ぶと同様に侮辱を感ぜしめる(平野・清野1942)」としてその使用をやめるよう提唱したこと、最近では「北海道旧土人法」問題等を考え合わせるとかなり問題のある言葉であることがわかる。」(大倉 潤2001「南方植民地の考古学・人類学的研究 -太平洋協会と清野謙次をめぐって-」『土曜考古』第25号:133.)

「「石器時代人」に対比された「土人」、「土俗」、「民族事例」などの数々の表現は、語彙のもつ領域を越境して、狩猟採集民/社会(被支配住民)を「太古の人々」として時間のなかに凍結させた、表象統御のボキャブラリーであった。それは考古学が近代化の過程で帯びた、野蛮性の見極めというマスター・ナラティヴが、より強い社会的浸透圧をもつアレゴリー(寓意)として創出されてゆく過程でもあった。つまり社会と考古学の相互構築的・相互保証的な言説交換のメカニズムは、これらボキャブラリーがあいだを取りもつことで、成立の論理的根拠が際立つこととなった。考古学に起源するこれらボキャブラリーは、アイヌを日本民族と対置させることによって「文明度」の視覚化を行い、民族の序列を時間軸に沿わせて配置しなおした、民族主義のもっとも「インテリ的」な表現方法でもあったといえる。「未開」とされた人々の生活世界が「考古学」を成型し、考古学が「未開人」の存在を学術的に制度化することを促したのである。」(628.)

正直言って、13年たってようやくという感を否めない。
あの時の「疑念」は決して「誤解」ではなかった、ということか。

「われわれ考古学者がもっとも意識を研ぎ澄ますこと、それは社会化された考古学論理と解釈を曳航するための舵取りの腕前についてなのだ。」(628.)

「舵取りの腕前」については、誰かから教えてもらって身に付けるという以前の問題ではないかという思いが深まっている。


タグ:土俗
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コメント 6

カラス天狗

「土俗学を唱え実践した明治期の学者たちの意識の中に差別観が内包されていたことは否定できない」ならば、「土俗」という用語は、本来「無色」ではなく、そもそも「差別的色彩」を帯びていたと言うべきでしょう。それをあえて「無色」と言いつくろい、さらには「歴史的過程を自覚しつつ」も、それでもあえて使用するというのであれば、その「歴史認識」こそ、まずは問われるべきではないか、と思います。そして、「自覚的」学者・研究者である、あなたの「土俗考古学」は、現代に生きる「アイヌや狩猟採集民(の末裔)」にいかなる具体的貢献をなしえるのか? と、質してみたいですね。



by カラス天狗 (2012-11-15 13:21) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「そういうわけで」という接続詞の用法が、いまだによく理解できません。
どういうわけで??
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-11-15 19:44) 

カラス天狗

ちゃんとした「わけ」などないのかもしれません。恩師と私への「一体化」のための「そういうわけ」なのでしょう。後学(弟子)に対して、調査される「他者」への「共感」ではなく、恩師と私への「忠誠」「一体化」をとりつけることが目途のようにすら思えてしまいます。


by カラス天狗 (2012-11-15 21:36) 

カラス天狗

たびたびすみません。これで、今回はおわりにします(笑)

「土俗」をどうみる? 
いかに、自分の問題として引き受ける? 
『学問の暴力 アイヌ墓地は なぜあばかれたか』植木哲也2008 春風社
は、考えさせられます。みなさん、是非、ご一読を・・・
「・・・一方的に力の行使の対象とされた人々にとってみれば、発掘は多くの場合、暴力以外の何ものでもない・・・」・・・・と、本文に・・・。

しかし、「記憶」の残る時代だから、まだまだ、そう明確に言えるのかも。
「記憶」の途絶してしまった時代・・・例えば、縄文時代ならどうだろう。
「縄文人」は、死んでしまっていて、抗議できませんね・・・。
同時代に生きた「他者」(目撃者)もいません。
だから、考古学者や調査者は、せめて「見てきたような「嘘」をつかない」という、禁欲的な節度はもつべきでしょう。
講釈師ならばともかく、実証をおもんじるのであるならば、そんなに簡単に「縄文時代の歩き方」など、説けるもんじゃない、と思います。
それにしても、巷にあふれる縄文言説・・・発掘調査事実に照らして、わかり過ぎ・・・「げた」をはかせ過ぎじゃないでしょうか? 
それもまた、抗議できない「縄文人」にとって・・・「暴力以外の何ものでもない」と感じるのですが。 

by カラス天狗 (2012-11-16 22:02) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

植木2008については、【2010-07-15】にて紹介しました。
そこでも紹介した新谷1977で引用されていたアイヌの古老の方の言葉。
「学者さんの研究には魂が入っていない。」
返す言葉なし。
少しでも「魂の入った研究」を、と願っています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-11-17 08:22) 

カラス天狗

このパターン・・二度目、三度目でしょうか。申し訳ありません。
それだけ、このブログも年輪を重ねたということだと思います。
良書の紹介をこれからもお願いいたします。
by カラス天狗 (2012-11-17 08:58) 

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