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保坂2012『日本旧石器時代の礫群をめぐる総合的研究』 [全方位書評]

保坂 康夫 2012 『日本旧石器時代の礫群をめぐる総合的研究』 礫群研究出版会

「礫群は日本列島の旧石器時代遺跡の中で見出される、焼け礫を中心に構成される遺構である。遺跡の中で一般的に見出されるものでありながら、非加工物の集合体という特徴から敬遠され、研究が等閑視される傾向にあることは否めない。旧石器時代研究の中心である石器は、実に雄弁で、さらに美的な魅力さえ持ちあわせており、多くの考古学徒を研究に駆り立てることはいたしかたないことである。一方、礫群の礫はその対極的存在ではあるが、(中略) そこに秘められた旧石器時代に暮らした人々に関する情報量は、無限の広がりをもつ、計り知れないものであると認識したのが研究のきっかけである。」(はじめに.)

はじめに、私の礫観を。
まず一般に「礫群」と呼ばれる存在(私は「礫集中部」と呼ぶ)を「遺構」とは考えない。なぜなら礫集中部は、人間が意図的に構築・製作した<もの>ではなく、あるいは意図的に構築・製作した<もの>であることが確証できず、私には単なる礫・礫片の集合体としか認識できないからである。すなわち、私にとって「遺構」とは意図的に製作された<場>に限定すべきであり、礫集中部は単に使用された<場>に過ぎないからである。これは、「ブロック」などと呼ばれている石器集中部に対しても同様である。

また旧石器資料自体については、上掲の文章のように大きく石器資料と礫資料に区分することが一般的である。石器集中部(ブロック)を構成する石器、礫集中部(礫群)を構成する礫というように。
しかし私は、まず何よりも剥片石器(剥片を素材とする石器:例えばナイフ形石器や尖頭器など)と礫石器(礫を素材とする石器:例えば敲石や磨石、そして焼礫)とに区分したい。なぜなら、前者は製作痕跡石器(製作痕跡によって器種が認定される)であり、後者は使用痕跡石器(使用痕跡によって器種が認定される)という決定的な違いがあるからである。「焼け礫」も、敲石が敲打痕跡によって認定されるのと同様に、赤化や黒色付着物といった被熱痕跡という使用痕跡によって認定される使用痕跡石器である!

次に、私的な礫史を。

山形(お仲間林)でも藤沢(SFC)でもニュータウン(TNT)でも、何故か礫に出会い報告する機会に巡り合わなかった。
最初に出会ったのは、「府中市No.29遺跡」(都埋文報告29集)であった。ここでは、総計2431点の礫資料を報告した(しかしその内の1366点については実際にお目にかかることすら叶わず・・・)。
特に印象的だったのは、「箒状分布を呈する礫接合個体」である。すなわち接合資料の多くが礫集中部内に分布しており、1点のみが礫集中部外に分布するというパターンである。直接的な使用の場である礫集中部箇所から、あたかも1点だけ「掃き出された」ような状況である。16gの礫片が19m離れた場所から出土したⅠ-R2のNo.1個体、33gの礫片が6m離れた場所から出土したⅠ-R1のNo.8個体などについては、「清掃行為に伴うある種の廃棄空間」(五十嵐1996:93.)を想定した。

1999年には、都内の旧石器資料報告を検討する中で、集中部区分の問題性を指摘した(五十嵐1999「旧石器資料報告の現状(Ⅰ)」)。具体的には旧保谷市の坂下遺跡第2文化層2号礫群を巡る区分基準に疑問を呈したのだが、そのことに関する応答は今日に至るまで何処からも得られていない。

2003年には、調査面積5万4800㎡、礫資料3674点、区分した礫集中部は77単位という旧石器資料を報告したが、礫資料以上に検出された石器資料の報告に多大なエネルギーを費やしてしまい、礫資料の報告は極めて不十分なものとなってしまった(都埋文報告136集「武蔵国分寺跡遺跡北方地区」)。最低限の報告として、礫接合個体498例、接合資料数2056点を黒色付着物の有無および完形か破片かという遺存状態の組合せによって8類型の「礫資料状態」に区分し、その礫資料状態の接合パターンによって5つの礫接合類型を設定したのだが、そこから読みとるべき解析結果には全く言及することができなかった。
先の「箒状接合分布」について言えば、例えば接合個体2-3-2(2-R13・2-R15)あるいは接合個体2-2-1(2-R12・2-R13)といった2-R13という特定の礫集中部を中心とした分布状況が認められ、極めて興味深い(269頁)。

更に興味深いのは、箒の柄の先端に当たる資料(孤立資料)についてであり、往々にして他の接合資料と異なる外観(黒色付着物など)を呈するという点である。
この点については、時代は異なるが、最近調査した縄紋時代の集石構成礫についても同様の状況が認められ(都埋文報告267集「日野市山王上遺跡」)、こうした在り方を「異状態接合」と名付けて、諸賢の注意を喚起すべく現在投稿中である(物質文化研究会『貝塚』来春刊行予定)。

ちなみに「府中市No.29」での礫資料最長接合距離は「Ⅰ-R2(No.1)」の19.25m、「武蔵国分寺跡北方地区」では「1-3-24」の59m、「山王上」では「ho-8」の47.64mである。

ちなみに本書(保坂2012)では、都埋文報告136集『武蔵国分寺跡遺跡北方地区』の報告者名が「福田宗人・中西充ほか2003」となっているが、「福嶋宗人・中西充ほか2003」の誤植であろう。

「礫群の存在意義を一言で言うならば、集団の構成員が一時に集い、共食を行った最初の証拠であり、家族あるいはその括りを超えた集団の、結びつきの存在やその強化が図られた、社会の歴史を如実に示す存在であることである。(中略) 生業という点での動物性食料から植物性食料への依存増大とか、新たな食料の開発といった視点での意義付けが論じられているが、筆者はむしろ人間社会の発達史に関連して、現代にむけて社会規模が増大する歴史の流れのなかで、人と人との結びつきを強化すべく生み出された装置という視点こそ、礫群の意義を最も示すべきものと考えている。」(はじめに.)

書評に名を借りて、自らの礫史を綴らせて戴いた。
私はいつも集中部区分の妥当性といった入口段階で躓いてしまい、著者のように丹念な資料集成や地道な実験データの実施を通じて雄大な人類史を描くといった地点は遥か遠く仰ぎ見るばかりで、いつまでたっても辿り着けそうにない。
著者の益々の御勉励を祈念する。


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