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学史研究 [学史]

「…学史に対する視角をややもするとなおざりにする論文が垣間見られる現状を勘案するとき、学史を等閑視すべきではない、と言う見解が多く表明されたのである。/他方、日本の考古学史を体系的に論じられ、関係史料の共有化を独自の視点から具現されている斎藤忠博士が百歳を超え、溌剌として学史研究を続けられている慶事を後学としてお祝い申し上げたい、との声望も語られたのである。そこで「斎藤忠先生百歳慶祝」を記念して日本考古学史学会を発足させることに意見の一致を見たのである。」(坂詰 秀一2011「創刊のことば」『日本考古学史研究』第1号:1.)

およそ20年前にも、似たような名前の雑誌が創刊されていた。
しかしそのスタンスは、かなり異なっている。

「『考古学史研究』では、考古学の歴史に対して距離を置き、客観的な視点から考察するという立場は採りません。逆に、過去の考古学のなかに分け入り、そこに身を置くことによって、現在の考古学を見つめる眼差しを得ようとするものです。従って、ある時は一見無意味な細部にこだわり続けることになるかもしれません。しかしそれは、現在の考古学を支えている根拠を過去に求めるという作業のなかで必ず意味あるものになるでしょう。『考古学史研究』は、私たち自身に対して距離を置くという試みに他ならないのです。」(京都 木曜クラブ1992「創刊のことば」『考古学史研究』第1号:2.)

特定の主題に焦点を当てたグループ研究か、それぞれ関心を寄せる研究者が行なう個人研究なのかといった研究会の形態とは異なる「会の立ち位置」、先学の慶祝を記念するのか、それとも自らに距離を置くのかといった違いが明瞭に見て取れる。

何と評すれば良いだろうか? 空白の20年間? 「空白」といった言葉では、追いつかない気がする。
この20年の間に、「日本考古学」に何もなかったはずなどないのだが。
このいわく言い難い、ざらざらした違和感は、何なのだろうか?

「主流となっている日本考古学史研究は、日本列島における考古学のあゆみを研究してきたが、本来、日本考古学は、近代において帝国日本の植民地主義や侵略戦争の進展と不可分な関係性を有して、「朝鮮考古学」「大陸考古学」として発展してきた歴史をもっている。したがって、日本考古学史についても、ほとんど未着手である考古学者の「戦争責任論」の構築を視野にいれて、日本のアジア侵略に対する「他者」の責任追及の声への応答可能性を模索・保持しつつ、日本人考古学者の事蹟を研究する領域として、体系化・確立すべきなのである。」(黒尾 和久2007「日本考古学史研究の課題」『考古学という現代史』:92.)

戦時期の神道考古学は植民地に建立された海外神社に対してどのように対したのか、東京帝国大学人類学教室と1903年学術人類館の関係などは、なぜもっと深く追求されないのか。

「…日本考古学の戦後責任として、先学よりも、むしろ後学の「心の闇」に光りをあてる必要があるという学史研究の方針が導き出されるのである。「一種のタブー」が、戦後の日本考古学界に存在し続けることができたのは、新しい世代が、古い世代の超克に失敗してきた証しであろう。学恩に報いるという言葉があるけれども、この言葉を、先学の有する様々な矛盾の超克を、後学が果たした場面でも適用されるようにしたい。」(同:95.)

先学の墓参をするだけでは、先学の矛盾を克服することは困難であろう。
後学の「心の闇」は、深くて計り知れない。
「しかし、それでも、相互の「対話」を継続できるか否かを自らの課題にしたい。日本考古学に根深い「沈黙の文化」を超克する糸口は、老若を問わず、権威・権力の有無を問わず、考古学者同士の忌憚ない「対話」の継続の中で見いだすしかないと信じるからである。」(黒尾 和久2007「日本考古学史研究と歴史認識」『日本中世の権力と地域社会』:290.)
対話が呼びかけられているにも関わらず、その兆しは認められない。

「これはかねてからの私の思いなのだが、「生きる」という行為は否応なしに、自己と他者および世界に対する「肯定」を、その前提に含んでしまわざるを得ない。現実への、生物的次元での巨きな「肯定」なしには、言うまでもなく肉体の「生」は成り立つまい。だが、この世界が善ならざるものである以上-誤てる、変革されねばならないものである以上、人はどうしても人としての主体において、それらを「批判」し、「否定」し尽くさねばならない。そしてそれこそが「精神」の仕事であると、私は考えている。
「肉体」が肯定なしには成り立ち得ないものである以上、「精神」には「否定する力」が不可欠だ。そして私は「批判精神」こそが「精神」本来の姿であると、断言して憚らない。「生きる」とは、少なくとも精神にとって「生きる」とは、ある意味で「批判すること」「批判しつづけること」「批判しつづけていること」にほかならない。」(山口 泉1995『テレビと戦う』日本エディタースクール出版部:255.)


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カラス天狗

この話題がアップされてから、どうコメントしようか悩みました。
「対話」というと、優しい語感になりますが、「批判」に対する「反論」、それへの「反批判」というように、つらい時間と空間を痛みわけながら、「対話」は続いていくものだと考えます。
しかし、一方が「無視」する状況では、「対話」するのも困難ですよね。
だからこそ、もう一方は、相手と同じ土俵にあがれるその日まで(・・・それがいつになるかはわかりませんが)、「批判」を続けるしかないのかもしれません。
消耗戦のようですが、自らの「批判精神」が摩耗しないことが試されますよね。メッキがはげてしまい、我彼大差のない地金が露出することのないよう、がんばるしかない、と、恐れながら、いつも思います。
by カラス天狗 (2012-07-19 16:09) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「栗山は従来の郷土研究を「趣味家」「封建的研究者」(栗山1933a)による「史談会的」つまり「日本の資本主義的再編成を遂げることのできた半封建的土壌の上に築かれた半封建的方法」(栗山1934)であると批判し、これを「地域研究」(栗山1933b)に脱皮させなければならないとする。」(山田仁和2000「ひだびと論争の原点」『法政考古学』第26集:85.)
自らに対する批判・問いかけを一切無視することで何とかその時は押し通せるように思えたとしても、振り返れば何が残り何が残らないかは、いずれ明らかとなるでしょう。
目立たずとも、「史談会的」ではない後年に残る研究をこそ、志したいものです。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-07-19 21:55) 

カラス天狗

そうですね。そうありたいものです。
蛇足になりますが、このやりとりの過程で、野田正彰さんの『戦争と罪責』『虜囚の記憶』という対になる著作を思い出しました。確か後者に、戦時中に日本に拉致され、強制労働をさせられ、戦後、北京大学で考古学を学び、西安の調査責任者となった方の証言が挿入されていました。その方は、日中国交正常化以降、多くの日本人考古学者と知りあったようです。しかし日本人考古学者(きっと著名な方も含まれているでしょう)は、西安の発掘にはすぐに興味を示したが、自らの日本への拉致と強制労働の経験を語ると、驚くが、押し並べてそれ以上、何も聴いてこなかったそうです。これらの日本人考古学者は、「人」としてどうなのか、というようなニュアンスで、野田さんの文章が結ばれていたように記憶します。
要するに、日本人考古学者は、見事に「他者」との「対話」に失敗したというわけです。きっと拉致・強制労働は、自分とは関係ないと思ったのでしょう。しかし日本考古学は、「近代において帝国日本の植民地主義や侵略戦争の進展と不可分な関係性を有して、「朝鮮考古学」「大陸考古学」として発展してきた歴史をもっている」のであり、それは学史を繙けば疑いのないことで、決して関係なくはないと思います。
もっとも考古学者である前に、一人の人間として、日本人として、日本との関わりにおいて、悲惨な体験をした人の語りに「共感」できないのですから「心の闇」は深いですね。このように他者理解の貧しい人が、「記憶」の途絶した過去を、考古学的手法によって復元し、<もの>語るのですから、その語りにどの程度の真実味があるのか、はなはだ疑問です。
日本考古学史研究会が、どのような立ち位置で、「外地」における近代日本考古学の事蹟に触れるようになるのか、しばし注視していようと思います。
by カラス天狗 (2012-07-20 16:25) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「人類学という学問も考古学という学問もいやすべての資料学がそうであるが、中学高校とやっとこすっとこ通過して、さて大学へ入るのだが、一番すいていて入りいい科はと見まわして、やってくる学生が多くなった。そういう面々は、日本の遺跡については、中学出でも、実地に情熱をそそいでやってきた奴には到底かなわない。
フイルドに出れば、その学生は、鼻たらし小僧にこずきまわされる。つい、こんな馬鹿馬鹿しいことがあるか、ということでデスク・ワークにこもり、得意の語学で西欧の文献に沈殿する。アカデミーが大陸考古学に韜晦した、いや韜晦ではなく軍に協力して進出した理由の一つである。この大陸進出については、国内で地虫のような研究を続けいていたアマチュアはむろん採用されることはなかった。」(藤森栄一1969「日本考古学への断想」『中央公論』第987号:266.)
中国社会科学院考古学研究所の馬得志さんについては、野田さんが『世界』で紹介した記事について記したことがありました(「ある中国人考古学者の生」【2007-11-22】[近現代考古学])。そこでの私のコメントが、昨日のと殆ど変わらないことを発見して、吃驚。相変わらず進歩がありません。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-07-20 19:32) 

カラス天狗

野田さんのルポは『世界』連載のものでしたね。伊皿木さんが、すでにブログで馬さんの記事に触れていたこと、失念していました。申し訳ありません。

「発掘調査の中心として大きな役割をなした杉原、第一次調査で活躍した大場などをのぞけば戦中に「海外」の考古学に参画した人びと、「肇国」の考古学の中心であった人が、登呂発掘の原動力であった。そして、登呂遺跡の発掘が、その後の日本考古学の展開にとって大きな影響をあたえることになっていった」(坂詰秀一2011「登呂の色紙-その背景をめぐる感懐-」『日本考古学史研究』)という言説も、読み手の立ち位置によっては、かなり違ったものとして、とらえることができるように思います。
他人のそれだけでなく、自らの「心の闇」と向き合う営みにならざるを得ませんよね。


by カラス天狗 (2012-07-22 09:23) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

先程、長野で開催された「石友」の「偲ぶ会」から帰宅。
様々な人間模様を目にしながら、「人が生きること」の意味について改めて考えました。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-07-22 21:00) 

早坂

昨日はお疲れ様でした。
遺影の前に並べられた著作の中に
 戦後日本史学論争事典?
という風なタイトルの今年6月発行の本がありましたが、
書店サイトなどでキーワード検索しても見つかりません
どのような本だったか、題名や出版者など、
ご記憶はありますか?

by 早坂 (2012-07-23 22:02) 

カラス天狗

「偲ぶ会」に出かけられたのですね。『戦後歴史学用語辞典』(東京堂2012年7月刊行)でお世話になったのですが、巻頭に配された「前期旧石器存否論争」が「遺稿」の一つになってしまいました。文中の「前期旧石器の捏造はまさしく日本考古学に埋め込まれた日本民族の起源を追求するという濱田耕作以来の思想を背景にもつと考えられる」という彼の発言を受け止めたいと思います。

by カラス天狗 (2012-07-23 22:06) 

早坂

ありがとうございます。タイトルに「論争」が入ってなかったか。
カラス天狗様のブログは無いかとか、歴史科学協議会のサイトに情報が無いかとか探したんですが、惜しかった(^_^;)

by 早坂 (2012-07-23 22:56) 

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