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田村2011『旧石器社会と日本民俗の基層』 [全方位書評]

田村 隆 2011 『旧石器社会と日本民俗の基層』ものが語る歴史24、同成社

「私は、考古学とは、自分の生活の舞台である地域を対象にして、その地域に残された遺跡や遺物を念入りに調べる学問だと考えている。広域的な編年や大所高所からの論評などは、大学の先生たちに任せて、読者諸氏は自分の住む町や村の歴史を探訪し、それを自分史の中にしっかりと刻み込むべきである。そのためには、まず、一般的な概説書を学ぶことが必要であるといわれている。私は、自分史以外に歴史の定義を知らない。石器の製作手法を学び、石器の分類原理を身につけることが、郷土理解の第一歩であることも否定しない。しかし、自分の納得のいく解釈をおこなうためには、それだけでは不十分である。苦労してあつめた多くの資料から、生き生きとした歴史を語るための方法を学ばなくてはならない。だが、わが国に既存の解釈装置は、老朽化して使いものにならないのだ。」(i.)

巻頭カラー写真は河原に転がる礫とそこから剥がした石の写真、エピグラムはポール・リクール、著者の本領が遺憾なく発揮された異色の概説書である。

「型式学を学ぶことが、考古学の基本であると説かれているが、あまりにも型式学の枠組みに固執すると、柔軟な理解が阻害され、固定的で狭い視野からしかモノが見えなくなる。スーザン・オーヤマが彼女の方法論の前提としたparity of reasoning(理論の等価性)というアプローチが求められるゆえんである。たとえば、あるシンポジウムの基調報告のように、「この石器はB型式の石器だからx層に帰属しなければならないから、調査者が主張するようにy層から出土したA型式ではない」といった逆立ちした論理がまかりとおることにもなる。考古学とはさまざまなテキストからなるポリフォニーであり、型式学とはそのほんの一部にすぎない。せめぎあうテキスト相互の磁場で、形式学(ママ)はその固定的意味を喪失する。」(ii-iii.)

中期旧石器から石材産地の探求、最近他界したビンフォードをはじめとする世界各地の民族考古学的成果の紹介、進化生態学、マトリクス効果、モジュール化、テトラディック・モデル、ダンバー数、人口調整システム、そして発生システム論(DST)に至るまで、内外多数の最先端の研究成果が縦横無尽に語られることになる。旧石器の概説書で、「脱メチル化機構」や「ベロウソフ・ジャボチンスキー反応」が述べられるとは、前代未聞である。

「後期旧石器時代はほぼ3万5,000年前にはじまり、1万6,000年前におわった。この約2万年間の時間的な経過をどのように物語るのか。叙述するものの視点によって、それは一様ではない。いろいろな学派があり、一匹狼もいる。石器文化の段階的な変化が提示され、地層ごとに仮設された細かな変遷がとかれてきた。そして、多くの研究者がこれに追随してきた。それは単純でわかりやすいし、時に実証主義という欺瞞的な衣もまとっていたこともあずかっていた。私は本書で、このような素朴な方法によっては把握できない、多くの大切な問題が残されていることを指摘してきた。もっとも核心的な「何か」が欠落しているのではないか。それは、一口でいえば、旧石器時代の歴史、あるいは歴史という物語だということもできる。そもそも、文化の恣意的な設定や、段階の認定など歴史・物語の一端を構成しているにすぎない。しかし、わが国の現状を見るとき、歴史的叙述の阻害物に転化していることも多い。旧石器時代の歴史を叙述するためには、物語るためのルートマップや方法が必要である。きちんとした手順が示されなければならない。」(240-1.)

こうした筆者の立場が、現在の「日本旧石器学界」においてどのように受け止められているかについては、最近の研究集会で示された文章群を一瞥するだけで、すぐさま明らかになるだろう(例えば「ナイフ形石器・ナイフ形石器文化とは何か -概念・実態を問い直す-」石器文化研究会2011『石器文化研究』第16号、【2011-01-27】参照)。両者を読み比べることによって、「日本考古学のガラパゴス化」の様相もまた明らかになるだろう。

当初は奇異に感じた、書名にも採用されている「民俗」という用語だが、読み進めるうちに筆者としての研究道程の行き着くべくして行き着いた到達点なのでは、と思わされた。ただしこうした考え方の拠って来るところとされる文献(川田2008)が、『COEプログラム推進会議』という入手が困難ですぐさま文脈を確認できないのが残念である。

「物語行為としての歴史という考え方は、埋蔵文化財行政にかんしても新しい見方を提示する。埋蔵文化財にはかけがえのない価値がある、だから保護されなければならないといった俗説は斥けねばならない。いったいだれが価値を定め、根拠のない価値観を押しつけてきたのか。埋蔵文化財には、先験的な、あるいは天下りの価値など存在しない。それはさしあたり空虚なモノにすぎない。価値を練り上げるのは、私たちであり、自己史を回顧する民衆である。自己史のなかで、価値が発見され、それに意味が与えられ、はじめて埋蔵文化財は保護されるべき対象になる。民衆に一方的に価値を押しつけてきたのは、権威者と行政にほかならない。わたしたちが、まず着手しなければならい(ママ)のは、先にあげた真理条件を素直に認めることである。これは常識的な判断なのだが、じつは近代という認識の枠組みと向きあうことになる。」(244.)

「捏造事件を経験した日本考古学そして埋蔵文化財システム(埋文産業)は、語る相手を見つめ直し、語る自らを問い返し、新たに語り直す必要がある。」(五十嵐2007「<遺跡>問題」『近世・近現代考古学入門』:255.)


タグ:埋文 旧石器
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