2011年:寒中見舞 [雑]
「正義」
せいぎせいぎせいぎせいぎせいぎ…
と謳っていたら、
その中にたくさんの
「犠牲」があったのです。
(世界の終わり)
No Music, No Life? というTower Recordsの宣伝ポスターより。
私たちの毎日、あらゆる行動、そして人生そのものは、無数の選択の連続、集積によって、形作られている。
今日、何をするか。誰と会って、何を話すか。あそこに行くか、それとも行かないで、家にいるか。家にいて、何をするか。どんな本を読むか。
こうした選択の多くは、どーでもいいようなことばかりであるが、中には人生を左右するような決断もあるだろう。
その多くは、どちらを選べばよいのか、明らかなこともあるだろうが、どちらを選べばいいのか、途方に暮れてしまうような場合もまた多いだろう。
恋の悩みから、今の生活を続けるべきか、それとも新たな転機に活路を見出すかといったような。
あるいは学会組織や国家の政策判断から権力闘争に至るまで。
そこには、どちらが正しいか、正しくないかといった物事の是非、すなわち正義である否かという判断が基本となる。そして自分にとって、そのことが得になるかそれとも損なのかという利害関係の打算。
多くの場合に、正しいと思われることが自分にとっても利益となることが望ましいが、そうでない場合も多々あり、心の葛藤が生じる所以となる。
それでもできるだけ正しいと思われる事柄を選択することが理念的にも望まれている訳だから、人の周りには常に表向き「正義」という題目がつきまとわざるを得ない。
私の方が正しい。裏返せば、対立している相手、敵対勢力は間違っているという主張。
冒頭の言葉は、そこに大小さまざまな「犠牲」が払われていることを教えてくれた。
それは自爆テロに伴う人命の場合もあれば、ちっぽけなプライドといったこともあるだろう。
多くの犠牲を踏み台にして、私たちの正義が存在している。
正しいとか間違っているというのは、そうした痛みを抱え込んで成立している。
あけましておめでとうございます
たくさんの選択肢の連続をうまく編みこんで、せめてみんながそこそこに楽しめる世の中にならないものかと思います。
今年もよろしくおねがいします。
by ハシモト (2011-01-03 01:08)
こうしたことを心に留めつつ、やはり自らが正しいと思うこと、信じたことを、もっとみんなが、大きく強く言うことが大切なんだと思います。特に「日本考古学」という世界では。
近くであるいは遠くで、力をあわせていきましょう。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2011-01-03 09:45)