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高祖2009『新しいアナキズムの系譜学』 [全方位書評]

高祖 岩三郎 2009 『新しいアナキズムの系譜学』シリーズ道徳の系譜、河出書房新社

「本書『新しいアナキズムの系譜学』は、一つの統一性をもった哲学大系あるいは存在論をうち立てる試みではない。あくまでも現に活動している様々な「反権威主義的世界変革運動」を讃え、かつ活性化する願いから書かれている。いわば、それは継ぎ接ぎだらけの存在論であり、実践によってのみ繋げられる諸々の「台地(プラトー)」の不連続線を形成する。」(178.)

ある組織を巡る騒動の渦中にいた時に読んだからなのか、読むたびに勇気づけられる、そんな一冊である。

「今日いったい誰が、資本主義分析の歴史的蓄積を前提にせずに、世界変革について思考しえるか? 同様に今日いったい誰が -理想的社会制度の到来を待つのでなく、現在の運動形態の中にすでに理想的社会関係を具現化していくという- 予示的政治(prefigurative politics)に基づいた組織論によらずに、未来の地球的運動を企画しえるか?

われわれは透徹した唯物論的分析に向かう冷めた情熱を放棄するわけにはいかない。だが過去十数年の経験が教えているように、資本主義がわれわれに強要する個人主義を実践的に超えるためには、他者への尊敬と愛を土台にする運動にしか可能性はない。かかる闘争の現実の中で、マルクス主義の難攻不落な体系性が後退し、むしろ単純明快な「アナキスト的基本原理」が調整役として浮上することになった。それは、この世のほとんど誰もが理解しうる基本的な項目 -たとえば自律(autonomy)、自主連合(voluntary association)、自己組織化(self-organization)、相互扶助(mutual aid)、そして直接民主主義(direct democracy)など- からなっている。」(10.)

「アナキズム」と言えば「無政府主義」という訳が定番となっているが、実は言葉の意味内容を正確に言い表したとは言い難い、言ってみれば誤訳ともいうべきもので、正しくは「国家(archy)」に反対する(an)、すなわち「反国家主義」「反資本主義」とでも言うべきことが明らかにされる。

「今ここで進行している反資本主義的闘争は、様々な地域の闘争と地下で連動し、そこから瞬時瞬時、無数に分岐し飛び火し多種多様体を形成していく。かかる今の革命には最終的到達点/大団円(=超越性)はありえない。まさにこの意味で「新しいアナキズム」は「反資本主義的生」あるいは「資本主義の外の生」を、革命が成就した後に確立される「制度的現実」としてではなく、現在進行形の運動=闘争における「構成的な過程(constituitive process)」として繁殖させていく。だからこれは対抗運動であるだけでなく、それと同時に新しい何かの構築であるような社会的過程のことなのである。「新しいアナキズム」とは、この出発点-あるいはデ・アンジェリスが「歴史の終わり」としてのポストモダンに対して言う「歴史の始まり」-の認識である。」(14.)

そう、何かの到達点・ゴールがあってそれが達成されるか否か、勝利か敗北かではなく、そこに至る過程こそが目的となるような運動。決められた道を決められたルールに従って歩む道のりではなく、様々な状況に応じて多様な人々が自らの主体的判断でそれぞれに対応し、自由に参加し、共にある希望を目指して歩む在り方である。

「われわれは希望(証拠に基づく)と信仰(より長期の射程を対象とする神秘的な領域)という二つの異なった次元で闘っている。われわれの闘争、世界民衆の闘争とは、物理的効果と帰結だけの世界ではない。それは象徴の領域そして集合的な想像力の世界である。言い換えると、それは「一人歩き」の領域ではない。「共に歩く」ことによってのみ形成される「共通なるものの領域」あるいは「神秘的な領域」なのである。それはわれわれにとって尽きせぬ創造の領域であって、単なる苦難/苦闘の場ではない。それがソルニットの「希望」なのだ。かくして「闘争論」が一つの哲学となる。」(72.)

ある意見の対立があるときに、どちらかがどちらかを屈服させる、無理矢理、力づくで、多数決で異論を封じてといったことではなく、あるいは分裂や冷笑でもなく、すぐには効果が出なくても地道に「古い社会の殻の中に新しい社会を築いていく」努力をし続けること、その時、力になるのが、「共に歩く」仲間である。

「だがこの「絆」は、やはり人々の社会関係のどこかに記憶として刻まれていく。そして何処かで再浮上する。場合によってはすぐ現れず、消えたかに見えても、隔世遺伝のように、時間と場所を飛び火し予期せぬ場所に出現する。闘争における経験の豊饒化こそが、地球の自意識としての「人間形成」の糧となるのだ。第一章のルクリュが言うように、それは地球的自意識を実現する過程で、その中に折り込まれていく。だからこそ闘争、運動、そして蜂起の成功と失敗は一律に語れるものではない。最近われわれの多くは「自然発生的(spontaneous)」という考え方が疑わしく、偶発的に起こったかに見える蜂起は、ほとんどの場合、それまでに積み重ねられてきた「塚」の効果であり、あるいは「継続革命」の賜物ではないか、と問うている。」(114.)

今回の騒動に関しても、40年前に提出された問題提起が伏流化し再浮上した「塚効果」ではないかと考えているのだが。その時に積まれた一つの石が基となっているような。それは決して40年前と同じ形を呈しているわけではない。それは、様々な状況変化に応じた、新たな時代の新たな形の「闘争」そして「蜂起」であることを経験しつつある。

「「大陸的思考」とは、歴史的に中国やヨーロッパなど、ユーラシア大陸で発展した「システムの思考」である。それは伝統的な思想体系、あるいは一つの文化的アイデンティティ―に則った思考の体系を形成する。それに対して「より直感的で、より壊れやすく、脅威に曝されているけれど、混沌‐世界とその予測不可能な結果にふさわしい別の形の思考が、おそらく人文社会科学の諸成果に支えられて、とはいえ世界の詩的なものと想像的なものが与えるヴィジョンのなかを漂いながら、発展してい」る。それが「群島的思考」である。われらが闘争論の文脈で考えるならば、これこそつねに「主義主張」や「理論体系」の統制を相対化し、新しい「闘争と運動の局面」に開かれた「ラディカルな経験主義」に対応する。この思考は、決して世界を既知のものとしない。世界は、つねに未知なるもの、多種多様なものであり、だからこそ新しい可能性に満ちている。そのようなものとして「世界を愛し続ける」思考なのである。」(150-1.)

一連の過程を通じて、同じ事象・出来事を見て感じているにも関わらず、その捉え方・評価の仕方が全く異なるといった局面に幾度も遭遇してきた。「闘争」や「運動」だけにとどまらず、最終的には「世界」をどのように見るか、どのように生きるかという部分に行きつくのだろう。

「これまでで充分明らかになっただろうが、「新しいアナキズム」とは特定の思想のことではない。主義のことではない。運動のことではない。それは世界中に出現した無数の「反権威主義的世界変革運動」が共有しつつあるエートス、理論、姿勢、課題、そして時代認識である。それに関して固定化されているのは、その単純明快な「基本原理」のみである。つまり「新しいアナキズム」とは、結局、更新し続ける「アナキズム」のことなのである。エマ・ゴールドマンが言ったように、アナキズムは、あまりにも生と人性に近いので、この世から消え去ることは決してないだろう。」(218-9.)

常に「更新し続ける」考古学運動。


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